又 アカウンタビリティの重要性

『黄昏ではなく曇天のイギリスから』の「その2 アカウンティー」に移ろう。「アカウンティー」というのは「説明を受ける権利を有している人」という意味である。このエッセーはイントロが長くて「本論はどこにあるのだ?」と訝しく思いながら読み進めてくださる方がおられると思うが、私自身はこのイントロこそに意味があると思って書いている。と言うのは、私の留学の目的は「学位を取るため」でもなければ「その筋の権威の教授と懇意になって翻訳権を得る」ためでもなかった。ただ純粋に「ある国の制度はその国固有の諸条件の上に成り立っている」ことをこの目で見て確認することにあったので、「何でも見てやろう」の毎日で気づいた諸々のことこそが留学の成果なのだ。「こんなことがどうして面白いのだ?」と突き放さないで読んでいただければ幸いです。

8月25日のブログで「イギリス流おつりの渡し方」について書いた。複式簿記を勉強し始めると誰もが気づくであろう「加算式減算」の実体験はまさに「眼から鱗」だった。2回目の留学で代金を支払う際、1回目の留学で経験したおつりの渡し方を思い出しつつ「イギリス流の払い方を知ってますよ」とばかりに得意満面で支払ったところ、レジの若い女性から想定外の言葉を聞かされた。9ポンド12ペンスの支払いに10ポンド札を渡したところ、彼女は「12ペンス持っていないのか?」と聞いてきたのだ。慌てて12ペンス渡すと、彼女は1ポンド硬貨を返してくれた。驚くべきことにたった7年でイギリス人は引き算が暗算でできるようになっていたのだ。それはなぜなのか?チコちゃん風に言うと「レジスターがお釣りを自動的に出してくれる日本製の機種に置き換わっていたから〜」なのだ。毎日毎日レジスターの計算に付き合った結果、彼女たちの計算能力は飛躍的に向上したということになる。まさにダーウィンの進化論にかなっている?

一方、ロンドンに山ほどあった「レンタル家電製品屋」は綺麗に姿を消していた。イギリス製のテレビや洗濯機はしょっちゅう故障するし、修理を依頼してもなかなか来てくれないので、借りるほうが得策なのだ。TVでも盛んにコマーシャルを流していた。ところが、次第にイギリス市場を席巻し始めた日本製の家電製品は故障しない。当然のことながら、家電製品のレンタル業は成立しなくなったというわけ。

同様に、ロンドンに山ほどあった「自動車修理屋(看板には『ガレージ』と書いてあった)」も激減していた。イギリス製の自動車はしょっちゅう故障するために修理に出さなければならなかったが、次第にイギリス市場を席巻し始めた日本製の自動車は故障しないので、修理屋の仕事が無くなったのだろう。ちなみに、イギリス車に乗りたいけれどジャギュアには手の届かなかった私でも買うことのできた「ローバー623」というイギリス車は、新車だったにもかかわらず、販売店から自宅に乗って帰る途中に、シフトレバーのヘッド部分が外れ、助手席側のドアのネジがカラカラ音を立てながら抜け落ちた。「これこそイギリス車!」といきなりイギリス車の味をちょっとばかり楽しんだ。その後も定期的に修理費を払いつつ(電気系統の修理をした時は、その金額の大きさに愕然とした!)13年乗ったが、最後の方は山中越の昇り口でハンドルと車輪を繋ぐ部品が折れたために急停車して走行不能になったり、エンジンを固定する部品が取れてしまってエンジンそのものが前後に動くようになったりした。「イギリス車の味」を楽しむどころか恐怖を覚えるようになっていた。ちなみにローバー車は「ミニ」と「レンジローバー」だけが生き残って、セダンは中国メーカーに1ポンドで売却されて姿を消した。

私は、「品質の良い自動車や家電製品」を「品質の良くない自動車や家電製品」並みの安い価格で販売する日本企業の経営方針に大いなる疑問を持った。一生懸命に経営努力して作った製品なのだから、それに見合う価格で販売すべきではないのか、と。日本の製品は価格競争でしか勝てないのか?そんなはずはないだろう。品質の良いものはその品質を反映した価格で売れるはず。日本人労働者のサービス残業という犠牲の上に成り立つ安い労働単価で製品を作って安く売ることは、日本人労働者にとっても輸出先国の労働者にとっても決してプラスにはならないのだ。この考え方は、今も変わっていない。

ところで、7年の間にイギリス社会は豊かになったように私の目には映った。木切れでつぎはぎだらけのミニは走っていないし、「小銭を恵んでくれ」と寄ってくる酔っぱらいも見なくなった。これは、サッチャー政権=保守党の功績ではないかと思ったのだが、1997年の総選挙でイギリス人はメージャー保守党政権を見限り、颯爽としたトニーブレアの労働党に政権交代させたのだった。

このような本質的に政治好きとも言えるイギリス国民の能動的な投票行動は、政治家・官僚や企業経営者に「自分たちは国民の『代理人』にすぎない」ことを自覚させ、「主人」たる国民に説明することを重要視させることにつながっていると私は考えている。イギリスの政治家や企業経営者がアカウンタビリティを果たすために国民に説明することを重要視しているのは、彼ら自身の自覚に基づいて自発的に行っていると言うよりはむしろ、彼らがそのようにせざるをえないほど強くイギリス国民自身が「自分たちこそが政治家や経営者にアカウンタビリティをはたさせる対象である、すなわち「アカウンティー』である」ことを明確に意識するとともにそれを色々なところで明白に示しているからに他ならないと思ったのだ。

いったいいつまで日本人は「支持政党なし」と世論調査に返答するのだろう。日本国民の支持しない政党が国政を預かるなどという不遜なことがあっていいのだろうか?もう何年も前から考えているのだが、議員定数に選挙の投票率をかけた数字を確定議席数として比例部分の議席数を変動させる法律を作れば、自動的に議員定数は大きく減少することになる。政党助成金もこれに連動させれば、国会議員にかかる経費は大きく減少することになるだろう。

もちろん、議員定数を減らすことがそれ自体が目的なのではない。日本国民の望む国を作るために、日本国民自身がもっと政治に関心を持って積極的に政治に関わるとともに、国会議員にはもっと日本国民を幸せにする仕事をしてもらう仕組みを作ることが目的なのだ。

前の首相の辞職に伴って選出されたことは事実だとしても、国民に所信表明もしないまま外遊に出かけるというのは、封建時代のお殿様の世継ぎには許されても、民主主義国の首相に許されることではないだろう。訪問国でカンニングペーパーを見ながらその国の言葉でスピーチしても言葉は相手の胸に響かない。まずはアカウンティーである日本国民に自分の考えを丁寧に説明するのが順番というものだろう。

しかし、このような現状の責任は国民が負わなければならない。『黄昏ではなく曇天のイギリスから(その2 アカウンティー)』の最後に書いたように、「日本人は日本の政治を四流という前に、政治が四流なのは国民が四流の証拠だと素直に思うこところから始めなければならない」のである。