説明責任を果たせなかったら?
またブログを怠けてしまった。
ロシア・ウクライナ戦争とハマス・イスラエル戦争に対する国際社会の無力さに失望する日々。(もちろん、他の紛争や戦争も起きているのだろうが、日本のTVではほとんど報道されないので、起きていないことになっている)それに加えて、日本社会の劣化に対する日本国民の無力さに失望する毎日。これらが相俟って「ブログを書く気持ち」をめげさせるのだ。
しかし、今日は書いておこうと思う。何しろ私が同志社大学大学院商学研究科修士課程で大学教員になるために監査論の研究を開始して以来一貫して研究スタンスのコアにあった「アカウンタビリティ=説明責任」という言葉がマスコミを通して聞こえてこない日がないという日常となっているからだ。しかも、この日本ではしょっちゅう起こることなのだが、間違った意味で使われることが実に多いのだ。この際「アカウンタビリティ=説明責任」の本来の意味を書いておかねばと思った次第。私の監査論を受講した諸君にとっては「耳タコ」なのだが、受講していない方々や受講したけれども忘れてしまった方々のために、書いておこう。
自民党の政治資金をめぐる杜撰な会計処理をめぐって大臣や自民党役職者の辞任が相次ぎそうな状況で聞こえてくるのは「精査のうえ、適切な時期に説明責任を果たしたい」という国会議員=当事者のあたかも他人事のようなコメント。この場合、「説明責任を果たしたい」というのは「説明したい」という意味で使われている。実は、政治家の「説明したい」というフレーズが本当に説明するという行為を伴うことはほとんどない。思い返せば、安倍晋三元首相は「国民の皆様に丁寧にご説明し」というフレーズを多用したが、私の記憶する限り丁寧に説明したことなど一度もない。どうやら日本国民は「国民の皆様に丁寧にご説明し」と聞くだけで説明を受けた気持ちになる奇特な国民性を持っているらしい。政治家にとっては、この「丁寧な説明」と「説明責任を果たす」ことがどうやら同義語のようなのだ。
しかし、説明責任を果たすということは断じて丁寧に説明することではない!のだ。
塩野七生著『ローマ人の物語』を読めば「アカウンタビリティ=説明責任」の本来の重要な意味が理解できる。ローマ帝国の執政官が退任する際に監査官の監査を受けなければならないのだが、もしも説明責任を果たすことができなければ、つまり監査官とローマ市民が納得しなければ「死罪に処せられる」のだ。今もまたニュースで「精査のうえ、適切な時期に説明責任を果たしたい」と語っている国会議員の皆さんは「役職を辞する」のではなく「議員辞職をする」覚悟を持ってこのフレーズを繰り返しているのだろうか。と同時に、日本国民はこれらの議員を絶対に許さない、という強い気持ちを持っているだろうか。