続々 アカウンタビリティの重要性

『黄昏ではなく曇天のイギリスから(その1 アカウンター)』では速達郵便の届くのが普通郵便よりも遅かったことから書き始めて、最後にはイギリスの政治家が実に多くのことを国民に説明することについて書いた。「アカウンター」というのは「説明する責任(または義務)を負っている人」という意味である。会計士監査の発祥の国であるイギリスに監査の研究をするために留学した私にとって最大の衝撃的な出来事は、このブログの7月20日にも書いたエピソード、レディング大学マンスフィールド学寮の経理責任者のヴァルが「首相にはアカウンタビリティがあるから、国民に十分に説明をしなかったら、我々は次の選挙では彼女(サッチャー)に投票しない」と私の質問に答えたことだった。

今でも彼女の「政治家にaccountabilityがあるというのは当たり前のことなのに、どうしてそんな質問をするのか?」という実に怪訝そうな表情をありありと思い出すことができる。英和辞典を引いたら当時でもaccountabilityには「説明責任」という訳がつけられていたのだが、会計学者は総じて「会計責任」と訳して会計の専門用語として使っていたし、私自身もそう信じ込んでいたので、私の頭の中は「どうしてヴァルは会計の専門用語であるaccountabilityを普通の言葉として使うのか」という疑問で混乱し、おそらく彼女と同様に怪訝そうな表情をしていたに違いない。イギリスで生活し始めてすぐにもらったカウンターパンチだった。

やがて、イギリスの政治家が説明をするのは、当時の日本では珍しかった1時間を超える政治討論・インタビュー番組での「聞き手」の質問姿勢の厳しさと、相手の答えに対する再質問・再再質問のしつこさ、切れ味の鋭さがそうさせているのだと分かってくる。相手から「印象操作の質問をしないでください」と言われたりソッポを向かれてしまって、番組が持たないのではないかと心配すらしてしまうが、「聞き手」の年齢や貫禄は、相手が首相であろうと主要大臣であろうと御構い無しに国民の知りたいことを矢継ぎ早に質問しまくる様子は目を見張るばかり。ニュース番組ですら、TV局が一方的に情報を流すのではなく、報道された内容の責任者や関係者がキャスターからの質問に答える場面に多々遭遇した。このニュースキャスターもまた相手に臆することなく厳しい質問を浴びせかけるのだ。

日本でもようやくBSで一つの論点に向き合う長時間のニュース関連番組が増えてきたが、内容は「不感の湯」のような生ぬるさ。週末の政治バラエティ番組では落語でいう「我々同様の」タレント諸氏の個人的見解が垂れ流し状態。我々一般人が当事者に直接質問することはできないのだから、マスコミは情報を得て勉強し、アカウンタビリティを有する人にもっともっと突っ込んで説明させて欲しい。

この当時と比較して日本で改善されたのは株主総会に対する会社の対応だろう。総会屋はいつの間にか駆逐され、シャンシャン総会も姿を消した。やろうと思えばできるのである。

官房長官が「全く問題ない」と言い切っても、問題ない根拠をしつこく聞いて欲しい。政策の選択肢に関して「仮定の質問には答えない」と言われても「人事の問題ですから説明は控える」と言われても引き下がらないで欲しい。「将来の複数のシナリオを検討していないのではないか」とか「重要な人事の問題だからこそ説明を求める」と言って欲しい。そして、「想定外」という言い訳には、「どのような想定をしていたのか?そしてその想定はどうして外れたのか?外れたことの責任者は誰でどのように責任を取るのか」「その責任者から直接説明を聞きたい」と絶対に許すまじの強い気持ちで食い下がって欲しい。繰り返しているうちに、「説明責任は説明することではない」ことを理解し、自分に課せられたアカウンタビリティを果たすことの重要性を自覚する政治家が現れてくるかもしれない。