JRの事故から15年
ダイアリーを書くのは当面「1のつく日」と決めていたが、今日4月25日がJR福知山線の脱線事故の日だということをニュースで思いださされ、とりあえず当時のことを振り返っておくことにした。
2005年4月25日(月曜日)の朝、今出川キャンパス有終館会議室で行われていた大学執行部の会議中に事故の第一報が入った。(私は学生部長・学生支援センター長としての2年目だった。)JRの列車が尼崎で踏切事故を起こしたということだったが、すぐにTVの速報を見た人から「生やさしい事故ではない」という連絡が入った。しかも「同志社前」行きの列車、全国からひっきりなしに安否確認の問い合わせの電話が入り始めた。
この瞬間から、私の日常は文字通り「忙殺」の二文字に追いまくられることとなった。
まずは安否の確認、不幸にして亡くなった学生諸君の追悼、やがてPTSDで列車に乗れなくなった学生諸君に対するケアや障害を負った学生諸君の面倒を見るボランティアの育成など、事故に巻き込まれた同志社の学生諸君に対して「学生支援」というキーワードで考えられるありとあらゆる解決しなければならない検討事項が次から次へと目の前に出現した。学生支援センターの職員は交代要員の見込みも立たないまま大学紛争の経験から机の引き出しに常備されていた「現金」をカバンに入れて現地に泊まり込み、退院の見込みの立たない学生諸君に必要となるかもしれない宿泊施設として同志社国際中・高の寮の提供をお願いしたり、過度な犠牲を強いる可能性を見越して有償ボランティアの制度を設けたり、リハビリのためキャンパス滞在中に何度も必要とされるかもしれないストレッチ用の畳部屋を用意したりと、対応が十分だったかどうかは別として、実施できることはかたっぱしから実行したのである。
もちろん、現在進行中の世界規模の新型コロナ対応とは比較にならない大きさかもしれないが、15年前のわれわれもそれなりに事故に巻き込まれた同志社の学生諸君のために「想定外」の事柄が起こらないよう頭をフル回転させたのである。今「お家にいてね」と頼まれる立場の私が言うのはおこがましいかもしれないが、「忙殺」の二文字に追いまくられている皆さんが、目の前に次から次へと現れる「解決しなければならない検討事項」を適切に処理されることを願っている。明日の生活のおぼつかない「日本国民」が山ほど喘いでいることをちゃんと認識することは為政者の責任である。