プーチンのウクライナ侵攻 5

このところずっと「プーチンのウクライナ侵攻」というタイトルを使っているが、その理由は、太平洋戦争が終わって約80年、朝鮮戦争が休戦状態になって約70年、ベトナム戦争が終結して約50年が経過した今になって、毎日四六時中テレビ画面に映し出される無惨に破壊されたウクライナの街々や戦火を避けて避難する老人婦女子の姿を見るのが辛いからに他ならない。

私の記憶の片隅には、京都府立植物園が占領軍に接収されていた時代の入り口の景色が残っている。同じ頃、異形肺炎を患って死の淵を覗いたものの回復し、府立医大病院の中庭で看護婦さんに抱かれながらヤギの頭を撫でている記憶も残っている。また、父に連れられて大阪国税局に行く途中に環状線の車窓から見た爆撃跡も生々しい大阪の記憶も残っている。国税局に残っていた防空壕に入ろうとしたことも覚えている。私は、太平洋戦争に敗れた日本がまだ独立を認められていなかった時代に幼児期を過ごしていたのだ。

また、手作りのシェードをつけた裸電球を見上げながら布団に入っていた私が、母に「あの音は何?」と聞いたら、「朝鮮戦争に物資を運んでいる飛行機の音」と説明されたことを覚えているが、日本が独立したのは1952年4月28日だったから、独立直前か直後の記憶。日本は戦後でも、朝鮮半島は戦中だったのだ。

時代は飛んで、大学に入った1969年当時、同志社では大学紛争の嵐が吹き荒れていた。大学紛争は、もともと、東京大学医学部のインターン制度をめぐる闘争、日本大学の裏口入学や使途不明金をめぐる闘争、明治大学・早稲田大学等の学費値上げをめぐる闘争などが1968年頃から東京で火の手を上げていたが、それが関西に飛び火していたのだ。

入学早々、当時は空き地だった今の図書館が建っている場所で学生集会が開かれ、現在の寒梅館が学生会館だった時に3階にあった大ホールでは学生大会が開かれていた。(ちなみに、学生大会は学友会が開催主体であり、学生集会は学友会以外の学生が開催主体だった。)バリケードストライキやデモが頻繁に行われ、今出川通や烏丸通はフランスデモで行進する学生であふれかえってていた。(今の学生諸君には全く想像できない光景だろう。)実は、そのような紛争・闘争に絡むデモとは別に、当時は同志社大学に籍のあった鶴見俊輔教授等が主催されたベトナム戦争の終結を願うデモも頻繁に行われていたのだ。そして、実際にベトナム戦争も、終結した。

つまり、私が成長したプロセスには「戦争はダメ!絶対にダメ!」という信念が染み付いているのだ。このプーチン、どうにかできないのか!、という思いがこのタイトルに込められているのだ。

プーチンのウクライナ侵攻は、まだ止まない。