文献を渉猟することの重要性

前回のブログで、私は『會計奸詐』という著作そのものについては評価しなかった。テーマの「書を嗜む人は書物を著すのも得意(なのか?)」は、「文字をたくさん読むことによって考えるスピードは速くなるし、高速で考えることによってその成果は大きくなるのではないか」という私がずいぶん以前からそれとなく感じていた仮説について書くことが主題だったので、『會計奸詐』の内容についてはあえて書かなかった。

しかし、今日のテーマとは深く関わっているので、書いておかなければならない。

會計奸詐』をネット販売しているAmazonでレビューを二つ読むことができる。一つは「☆二つ」で、「論文まとめたものだろうが、孫引きが多く、千代田さんのものを読んだ方が良い」という低評価のもの。もう一つは「☆五つ」で、「会計士史を俯瞰する地図として優れている。膨大かつ各国の会計士史に関する資料を広範にわたって纏められ、さらに日本の会計士に成り立ちへの繋がりが体系的に記述されており類書は存在しないと考える」という高評価のもの。私はこの両方とも「外れていない」と思っている。

修士論文を書くプロセスで集めた資料を、原資料のまま著者の筋書きに従って並べたものという点では、「論文をまとめたもの」というレビューは的を射ている。1冊の研究書を書き上げるプロセスで論点を明確に浮かび上がらせて自分の主張を読者が納得できるように展開できているかと言うと、残念ながらそうなっていない。著者が全力を上げて収集した資料をそれなりの筋立てによって並べたところまでで(多分時間切れになって)出版した、と言う印象。したがって、研究書と呼ぶには未完成のレベルだと言わざるを得ない。

しかしながら、渉猟した膨大な資料をまとめ上げた力量は並大抵のものではない。しかも、この本が出版された時点では、まだ私の『会計監査本質論』は出版されていなかったので、まさに類書は存在していなかったのだ。著者は「極めてユニークな視点」で膨大な資料を整理し、修士論文を執筆する短い期間に1冊の専門書を出版したわけであり、これを「☆五つ」と高く評価しないわけにはいかないだろう。

私が研究者として著した『日本の会計士監査』と『会計監査本質論』で言いたかったことと、塚本弥生氏が大学院生の身分で書いた『會計奸詐』で言いたかったことが、同じライン上にあることを知った私は、彼の能力と成果に敬意を表するために2冊を携えて彼の勤務する監査法人に出向いたのだった。蛇足ながら、この事務所は、私が八重洲ブックセンターで待ち時間を潰していた会議の行われた事務所だった。ブログでやがて書くことになる「神の見えざる手」の一つの具体的事例だ。

実は、今日のブログは若い研究者に向けて書いている。

いつの頃からか、若い研究者の論文が薄っぺらく感じられるようになった。自分の建てた仮説を論証するのに必要な文献のみをデジタル検索で入手し、それを論拠にして一本まとめ上げているように感じるのだ。「それのどこに問題があるのか?」と言う声が聞こえてきそうだが、私は文献を渉猟する努力を怠るのはプロの研究者のすることではないと思っている。広い裾野が主張の盤石さを支えるものだろう。

似たようなことを趣味の世界でも感じたことがある。私は60年もの長期にわたって切手蒐集という趣味と付き合ってきている。そのプロセスで、国内切手展の審査員をしていたことがあった。いつの頃からか、審査をしていて若い出品者の作品が薄っぺらく感じられるようになったのだ。切手展に出品する作品を準備するにあたって、自分の作ったストーリィに必要な切手やカバーなどをデジタル検索で入手し、その郵趣マテリアルのみで出品作をまとめ上げているように感じたのだ。「それのどこに問題があるのか?」と言う声が聞こえてきそうだが、私は必要最低限の郵趣マテリアルのみで作品を作ると、作品のベースにコレクションがないことを審査員に見透かされるよ、と言いたいのだ。

ついでに言えば、入学試験に必要な科目しか勉強しないで大学生になっても、薄っぺらな大学生にしかなれないよ、と言いたい。海外の大学生と交流するとすぐにわかることだが、大学生はインテリでなければならないのだ。インテリであるためには、膨大な本を読み、自分の頭でじっくりと考え、他者と議論を戦わさなければならない。ただ講義を聞くだけでインテリになれないことぐらい、大学生ならわかるだろう。もしもわからないとしたら、たとえ大学の学生証を持っていたとしても、キミは大学生ではないんだよね。