中等症自宅療養の怪

今週号の『サンデー毎日』に保阪正康氏が「東京五輪は『本土決戦』か」と題して寄稿しておられる。副題は「国民の命をメンツのために使い、責任逃れする政治家」。

私は歴史研究者ではないので、保阪氏のような歴史についての広い視野を有していない。また、戦前に生まれて実体験としての太平洋戦争の終焉を知っているわけでもない。しかし、「監査論」の研究を通して、私は、アメリカとイギリスの社会体制や政治体制における「監査」が、今の日本で広く考えられている「公認会計士による上場企業の法定監査の手続き」ではなく、「情報の公開の正しさのチェック」にあることを論文でも著作でも講義でも発信してきた。「公認会計士による上場企業の法定監査の手続き」という監査論の本筋からは大きくかけ離れている「日本という国は、いかに西欧型民主主義諸国と同じ社会体制を構築しているかのようなふりをして、実は絵に描いたような『似而非』西欧型民主主義諸社会を作り上げているか」を、明らかにしてきた。

このような研究のスタンスはウォルフレンの『日本/権力構造の謎』から受けたが、彼の主張の核は「日本の権力構造には説明責任(アカウンタビリティ)が存在していない」ということだった。安倍晋三が、繰り返し、「国民に丁寧のご説明し」と言いながら、ただの一度も説明したことがなかったことを、日本国民は記憶しているのだろうか。

保阪正康氏は『サンデー毎日』(8月15・22日合併号)で「太平洋戦争の戦時下で日本の軍事指導者が陥った罠は『主観的願望を客観的事実にすり替える』良い雨天にあった」、「コロナ禍にあって日本社会は二人の首相を持ったが、安倍晋三、菅義偉の二人の首相は図らずも他者と議論できない、自説がない、といった点はまさに同じである。その性格が、『主観的願望』を『客観的事実』に替えるのに躊躇(ためらい)がないということになるであろう」と喝破しておられる。私には、この文章を書いておられた時の保阪氏の怖い顔を容易に想像することができる。

しかし、この文章が検閲で黒塗りされない国であることを幸せに思うか、それとも、この文章が黒塗りされていないにもかかわらず結果的には黒塗りされたのと同じことになっている、つまり日本国民がこの文章を読まないまま、竹槍で米軍に立ち向かうことになっていたあの1945年夏を「自宅療養」で繰り返すことになるのか。今、日本は瀬戸際に追い詰められていると思っている。日本中が熱波に覆われている酷暑の今、まさに「真夏の怪談」である。