忍耐の『お気に召すまま』
私のブログの熱心な読者にしてシニカルな批評家でもあるハマダくんは昨日のブログの内容に対して「血圧があがりまっせ!!」とコメントしてくれたので、今日は、私が逆境にもめげずに、いかに静かに耐え忍ぶ人間か、昔のことを思い出しながら書いておきたい。
上のプログラムはRSCすなわち Royal Shakespeare Company の『As You Like It』すなわち有名な『お気に召すまま』の公演プログラム。例によって断捨離しつつ本箱の棚の中から見つけ出したもの。前回の『屋根の上のバイオリン弾き』と同じところにあったのだが、『屋根の上のバイオリン弾き』は大いに楽しめたのに対して、『お気に召すまま』にはその対極の鮮烈な記憶があるのだ。
1996年夏に同志社大学の語学研修科目「ヨーク・サマー・プログラム」の引率(添乗員?)として20名の学生諸君とともに過ごしたヨークでの約1ヶ月のスケジュールの中に、地元のビール醸造会社の見学やエジンバラへの一泊旅行と並んで、ストラトフォード・アポン・エイボンへの日帰り旅行が含まれていた。私自身は、1990−92年の在外研究中に先輩のワダさんご一家に連れられてこの有名な街自体には行ったことがあったのだが、サマプロ(語学研修科目はこのように略称で呼ばれていた)の日帰り旅行にはシェイクスピア・メモリアル劇場で本場中の本場のシェイクスピア劇を見るという楽しみが用意されていた。
そのことがあらかじめわかっていたので、昔読んだことのある『お気に召すまま』をもう一度読んで、劇場の椅子に深々と腰を下ろして舞台を見たら、大道具・小道具は見当たらず、数本の柱が立っているだけのシンプルなつくり。そこに出演者が現れて、会話を交わしながら舞台は進行していくのだが・・・驚いたことに、何について話をしているのか、皆目わからない。焦った。食い入るように出演者の口元を見ながら聞き覚えのある単語がないか脳内の細胞の活性化を試みたが・・・皆目わからない。焦った。
そのまま時間だけが経過して、やがて『お気に召すまま』は終了した。
シンプルな舞台で意味不明の台詞といえば、能『鸚鵡小町』を初めて見たときの「これは何だ?」感に通づるものがありそうだが、実はそうではない。『鸚鵡小町』なら気持ちよく真昼の惰眠の世界に自然に入っていくことが可能なのだが、この『お気に召すまま』は最初から最後まで「知っている言葉探し」を続けた挙句、今目にしているシーンが『お気に召すまま』のどの部分なのか、とうとうわからないままフィナーレを迎えた。私は、この葛藤について学生諸君に一言も話さないまま、パブにエールを飲みに行ったのだった。
以上の告白のように、私は、個人的なことは耐え忍ぶことができても、まだまだ人生を楽しむ権利を有している私よりも若い日本国民に忍耐を強いる政権にはとことん苛立ちを覚えるのだ。それは、リタイアした今でも私が社会科学者の端くれだという証拠ではないか、と思っている。