新型コロナウイルス禍の大学生諸君へのエール 4

前回、大学の講義の質はバラバラなので講義を聴くか聴かないかを選択する権利は学生の側にあると書いた。今回は、一昔前に、在学生が一般教養科目を中心とした主として新入生の登録する科目の担当者を「学生目線で評価」していた一例を紹介しよう。

『間違いだらけの登録相談』というこの冊子は、ひところ、入学式当日を中心に新入生に配布されていた。中身は一般教養科目と語学科目を中心に独断と偏見に満ちた授業評価を繰り広げて、右も左も分からない新入生の道案内をしようとしたアナログの情報提供媒体である。

手許に残っているバックナンバー3冊から推測すると、1980年ごろから90年代にかけて配布されていたようだが、オリエンテーション・ウィークに「いかりぱっく」(発行サークル)の出店に立ち寄って手渡しでもらったことを覚えている。私自身は一般教養科目も商学部の1・2回生配当科目もほとんど担当したことがなかったので、残念ながら『マチソー』(誰も『間違いだらけの登録相談』と言わずに『マチソー』と呼んでいた)に載ることはなかった。正直言って、学生の声を聞きたかったと今でも思っている。

上は、「法学」担当の八木鉄男教授と山本浩三教授のページ。八木教授については「死神博士」そっくりと書いてあるが、その通り天本英世によく似ておられた。法学部での専門科目は「法哲学」で、まさに哲学者の雰囲気を醸し出しておられた。

山本浩三教授は、1970年から大学長を1期務められたので我々の世代にはお馴染み。立看板には「山本アウシュビッツ体制粉砕!」などと書いてあったので、後年、同志社スポーツユニオンの祝勝会で隣同士になった際に、自己紹介のついでにその立看の思い出話をしたら、それからお目にかかるたびに「アウシュビッツの山本です」とおっしゃるのには閉口した。でも、スケールの大きい、いい先生だった。

お二人の授業の評価を読むと、書いている学生の「愛情」を感じる。山本浩三教授が「ド楽勝科目」を言われるのがイヤだったということは、ページの右半分の囲みの中の教務課職員とのやりとりでも伺える。別稿で学生部職員と学生の「心の通う」やりとりについて書いたが、昔のキャンパスには学生と職員のそういった関係性が色濃く存在していたと記憶している。

さて、下の「登録人数ベスト10」。現在は「大規模講義撲滅運動」が功を奏して1クラス400人を超える講義は姿を消したが、私が入学した頃の同志社大学では「マンモス講義」と呼ばれた大教室での講義が珍しくなかった。今のようにパワーポイントのスライドを大スクリーンに映し出すと同時に後ろからでも見やすいように教室のあちこちにモニターがぶら下がっているような至れり尽くせりの設備のない時代、大教室の後ろの方に座ると教授の姿は豆粒ほど。麻雀のメンバーを集めるために教室に出向いた講義があった一方(この場合の講義は、待ち合わせ場所)、1987年当時なんと4103人もの登録学生を集めていた科目があったのだ!

話は全く変わるが、実は、家内に指摘されるまで、私は長い間、「匂ぐ」という動詞は存在しなくて、標準語では「匂いを嗅ぐ」と言うのが正しい言い回しなのだということを知らなかった。というのは、京都では、「だるまさんが転んだ」で遊ぶ際、「ぼんさんが、へをこいだ」と言っていたのだが、この数え方の後半に「匂いだら、くさかった」と続くのだ。そのため、私は、いい歳になるまで、「におぐ」は「におがない」「におぎます」「におぐ」「におげば」「におごう」と活用する「ガ行5段活用」の動詞だと信じて疑わなかった。これについて、1993年版に、面白い記述を見つけた。「良講度」と「楽勝度」の10段階評価が「ぼんさんが屁をこいだ」「匂いだら臭かった」となっているではないか。(今日のテーマと直接的関係はない)

実は、『マチソー』には、授業評価以外にも雑多なコラムが含まれている。上のような「毒にも薬にもならない」無難な「紹介」もあるのだが、他方で、ここで紹介するにはエロ・グロ・ナンセンスのレベルが物議を醸しそうな、今となっては「弁えなければならない」ような記事も散見される。(ただ、1988年版の57名のメンバーのうちの28名が女性だということを付記しておきたい。)大勢の学生諸君が編集会議で議論して毎号を作り上げていたのだろう。

その作業はきっと「楽しい」けれども「しんどい」ものだったことが想像できる。というのは、場所こそ違え、私も同じような経験をしているから。私について言えば、学術団会計学研究会の運営についての議論や、ゼミ活動とくに合宿でのプログラムについての議論は、今から振り返ればどうしてあんなに口角泡を飛ばして議論したのだろうと不思議に思わないでもないが、あれこそが大学での人間的成長のプロセスだったのだろう。

耳にタコができると言われるかもしれないが、もう一度、大学生諸君に言っておきたいことがある。大学での勉強は決して教室で講義を聞くことだけではないのだ。自分の頭で色々と考えて正しく判断し行動できる「素材」を脳内に溜め込む作業(行為)の全てが大学生としての勉強なのだ。

大学生の時間割はスカスカで、休暇も多く、特に4回生はほとんど大学に行く必要のないくらいに時間が余っていると感じている学生諸君が多いことと思う。それは、スカスカの時間、長い休暇、社会人直前の1年間は、時間が余っているのではない。その時間は、実は、本を読み、友人と話し、音楽を聴き、映画をみ、美術展に足を運び・・・人間として成長するための時間に他ならない。この時間を「余っている」と勘違いしてアルバイトなどで浪費することはものすごく勿体無い行為なのだ。

今から30〜40年前の大学生は、教授の授業内容に点数をつけながら、キャンパスの主役が学生だということを認識していたのだろうと思う。