新型コロナウイルス禍の大学生諸君へのエール 3
今日、今出川キャンパスに行くと、学生諸君が一杯いて、マスコミが伝えているような「新学期を迎えた大学のキャンパスでは三密を恐れる大学生がリモート講義を要求している」という風には見えなかった。いたって平穏な雰囲気なのだ。
一昨年までの良心館前広場では入学式後の数日は、サークルごとの輪が何十もできて、その日の夕方以降の花見や飲み会の声かけをしている上回生と自分のサークルを探す新入生たちでごった返していた。今日は、そのような状況なんぞ全く想像することのできない、いたって平穏な雰囲気なのだ。今年は桜の開花がいつになく早くて花見の時期がすでに終わってしまっていることや、オリエンテーションがコロナ禍以前の形で実施されていなかったことが影響しているとは思うものの、正直なところ、私の半世紀におよぶ記憶にはない今出川キャンパスの新学期の状況だった。
このようなキャンパスの始まりにあたり、去年大学生になった諸君と今年大学生になった諸君に、大学生としての生活の一端を知ってもらいたいと思い、この短文を書いている。
もっとも言いたいことは、すでにこのブログでも書いた(だろうと思うのだが、調べ直していると今日のうちに書けなくなってしまう)ように、「大学は高校の延長ではない」ということと、「大学での勉強は『受け身』ではない」ということ。このことを一刻も早く自覚して欲しいと願っている。
実は、我々の世代(=多分70歳以上)は、なぜか子供の頃から「大学生になる意味」を知っていた。さらに、この「大学生になる意味」は、必ずしも昨今の風潮のような「大学になること=偏差値の高い大学に入ること」ではなく「大学生になること」そのこと自体に重要な意味があることを知っていたのだ。一言で言えば、高校生=子供から大人=大学生になるということ。この点については、高校の先生方との触れ合いを含めて別に書きたいと思っている。
この鬱陶しいコロナ禍で大学生になった諸君たち、「大学がいろいろなことを教えてくれる」と期待を抱いてはいけない。大学は、教えてもらう場ではなく大学生自身が自ら学ぶ場なのである。大学という「時空」をどのように使うかは、学生諸君の姿勢にかかっているのである。
大学の講義の質はバラバラ、それを高く評価するか一顧だにしないかは、ひとえに講義を聞く学生諸君の自発的選択にかかっている。さらに言えば、講義を全く無視して勝手に勉強することも、場合によっては全く勉強しないことすらも、「大学での学び」であることを忘れてはいけない。
つまり、大学という時空が提供するありとあらゆる事柄から学ぶ機会を提供しているのが大学というわけ。私が大学生だった4年間、同志社大学に現在の図書館は存在しなかった。しかし、同志社大学の所蔵していた専門書を読み、勉強し、レポートを書き、卒論を書いたのだ。「ちっとも対面授業をしてくれない」と文句を言う「くれない族」になるのではなく、キャンパス中を自分から動き回って何かを見つけ出す第一歩を一刻も早く踏み出して欲しい。