ぼやき漫才

最近の国会中継を見ていると、日本は余裕がなくなったなぁと、つくづく思う。ガースーが色なして「失礼じゃないですか!」と言うことで一本取れたとでもと言うのだろうか。もうそろそろ国会中継はパフォーマンスではなく、大事なことを議論する場だと政治家に思ってほしいと思うのは私一人ではないだろう。その証拠に、ここ数日のTVの政治バラエティでの荒れ方はちょっとひど過ぎる。出演者が、本当に好きなことを(思いつきで?)言い合っている(としか見えない。あるいは、それ自体が「演出』か?)。

「誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書きたてて 評論家やカウンセラーは米を買う
迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う あとをついてさえ行けば なんとかなると思う
見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う」

と歌う中島みゆきを思い出す。

ストレートにものを言い合ってどうする?!セーフティネットの最後が「生活保護」だと言いきる首相にショックを受けて「何言うてんねん!」と噛みつくのは「ふつーの国民」であって、政治家は、その答弁からさらに国民に有利な答弁を引き出す「作戦」を持っていなければならないのではないのか。

ま、日本のテレビは大宅壮一が「一億総白痴化」と言った時代から実力の程は知れているから、そこで報じられていることの信頼感はゼロなのかも知れない。それにしても、近頃はひどすぎるのではないか。日銀はこんなに株を買ってもいいの?コロナ下の自粛で生計の立たないお店は生活保護を申請するしか方法はないの?大学入学共通テストは、本当に必要なの?その大学入学共通テストだけで合否を判定する大学が出てきても許されるの?去年あれだけ話題になった9月入学の議論はどこに行ってしまったの?医療崩壊の責任は厚生労働省にあるの、それとも日本医師会にあるの?コロナで入院させられた人が病院から逃げたら過料を課せられるの?入院したくてもできないのに。といった事事は、ただ報じられるだけでいいのか?

一昔前には、こう言った世の中の理不尽なことを笑いでやり玉にあげる「ぼやき漫才」なるものがあった。「責任者出てこい!」と叫んでいた人生幸朗・生恵幸子がかろうじて記憶に残っているが、それ以外にも、大阪では吾妻ひな子が持っている三味線を引きかけてはぼやき、引きかけてはぼやく間に持ち時間がなくなったし、東京ではローカル岡が「第一勧銀が不祥事を起こしたのね?いっかんの終わりだね?」などと茨城弁の独特の語り口で昼間から寄席にきていた人たちの笑い袋のスイッチを「入」にしていた。

江戸時代には川柳や狂言でお上を批判したことを歴史で習ったのに、今はどうしてお上を批判しないのか?ただふざけるだけのお笑いを垂れ流していていいのか?日本人は、自分たちの現況を忘れるために垂れ流されるお笑いが面白いお笑いだと思い込まされて、テレビの中の笑い声をただ聞き流していていいのか?笑ってもいないのに。