「一月は往ぬる」

今月は残すところ明日一日だけになった。子供の頃から「1月は往ぬる、2月は逃げる、3月は去る」と教わってきたが、大学教員の身分になってからは、まさにこの慣用句を実感しながら生きてきた。1月中旬に講義は終わっても試験やレポートの採点が待ち構えているし、それが終わらないうちに2月に入ると入試の監督や採点で毎日出社するサラリーマンの日々が続き、1日1日があっという間に過ぎてゆく。

12月上旬からお正月を挟んで1月末までの長丁場は、大学院生の修士論文の指導においまくられた。ひと昔前の大学院生は草稿提出の時期が早かったし、ざっくりとした指導をしてもこちらの趣旨を理解して的確に書き直してきたものだが、いつの間にか日本語そのものの書き方も指導しなければならなくなって、指導の手間のかかり方が半端ではなくなった。そのレベルの論文がワードで作成されるようになると妙なクセ字の解読に頭を悩ませる必要がなくなったのはいいけれど、コピペのリスクが高まってそのチェックにものすごく手間がかかるようになった。おまけに、それがEメールに添付して送ってこられるとなると、直接持参したり郵送された時代のような適度なインターバルがなくなって、「おいまくられる感」は甚だしい。修論審査が終わって研究科委員会で合格が認められるとようやく一息つけるが、その時点ではもう3月が目の前。

どうしてこんな愚痴っぽいことを書いているかと言うと、気楽な年金生活を送っている身分のはずなのに、このところ何かにおいまくられる夢ばかり見ているのだ。二つのキャンパスそれぞれで一コマずつ講義しなければならないのに、なぜか片一方を忘れてしまったり、そのキャンパスに行こうとしても道がわからなくて行き着けなかったり、ひどい時はどうやら半年間まったく講義をしていなかったことがバレそうになったりして、慌てまくったり知らぬ顔を決め込んだり・・・。若い頃、試験の開始に間に合わなかったり答案が書けないまま終了のベルを聞く夢を見てハッと目が覚めてほっとしたことが何度もあったが、そのような類の夢をこの歳になって見るのだ。しかも、このところその頻度が高まっているのだ。

どうして?一つ思い当たる節がある。

昨年12月に鳥羽至英他著『監査の質に対する規制 監査プロフェッション VS 行政機関』(国元書房)が届いた。今週の月曜日のブログ「百合野の監査論 第14回」の最後に「そして、余力があれば読んでみてください。監査研究に人生をかけて来られた鳥羽至英氏の強い思いが伝わってきます」と推奨したあの本である。添えられていた手紙に「願わくば、少しずつでも読み始めていただき、完読いただければ幸いと思います」とあったので、読み進めた。多分、これだろう。