「虫の知らせ」の怪
子供の頃、父親が「地蟬とりに行こう」と言うので、自転車の後ろに乗せてもらって御所に行った。と、ここまで書くのに「ぢぜみ」と打ち込んでもmacが「地蟬」と変換してくれない。ひょっとすると「地蟬」というのは間違った使用例かもしれないと思い、ググってみた。半分予想していたが、引っかかったのは京都の(多分)老齢の男性のブログだけ。そのブログの冒頭に「地蝉というのは、蝉の幼虫のことである」と書いておられるように、羽化するために地中から這い出してきた蝉の幼虫を地蝉と呼んでいた。
父は、地蟬を何匹か採取して家に持って帰って、私に羽化の様子を観察させようとしていたというわけ。木の根元を懐中電灯で照らして地蟬を探していたら、突然、「えらいこっちゃ!」というなり、地蟬とりは中止。私を抱き上げて自転車に乗せて一目散に自宅に戻ったら、父の弟さんが事故死したという知らせ(=多分、電報)が届いていた。そこに妹がいた記憶はないので、多分私は3歳。母に「未亡人のところに泊まるわけにはいかないから」と言って高校生だった母の弟を伴って東京に向かった情景を覚えている。「虫の知らせ」と呼ぶにはあまりにリアルな「知らせ」だった。
もう一つ、父のリアルな「知らせ」の場面を記憶している。加茂川の上流に「タガメ」や「アカハラ」をとりに連れてもらった時、当時の腕時計は防水ではなかったので、水に入る前にちょっと外してそばに置いたのだろう、帰ろうとしたら腕時計は行方不明になっていた。そのとき時間をかけて探したのかどうか記憶にないが、その晩、布団の中から突然ガバッと起き上がって「あ、あそこや!」と叫ぶなり家を飛び出した父は、腕時計を見つけ出して戻ってきた。夢の中で腕時計の落ちている場所をありありと見たのだそう。しかし、公園のように整備されている今と違って、当時の加茂川の土手は雑草が生茂りゴミも捨てられていて、昼間でも落ちている腕時計を見つけるのは困難な場所だったはず。ましてや真夜中。腕時計が心眼にでもはっきり見えていなければ見つけることはできなかっただろう。
私の父に「並みのレベル以上の第六感」が備わっていたのではないかという私の記憶の紹介だが、だから私にも並みのレベル以上の第六感が備わっているというつもりはない。しかし、次回以降、実際に体験したスピリチュアルな出来事をいくつか書いてみよう。