続 アカウンタビリティの重要性
さて、ずいぶん寄り道しているうちに日本の総理大臣が交替してしまった。交替と言えば聞こえはいいが、私に言わせれば「何も説明しないで逃げよった!」という感じ。
コロナに感染したという報道は大統領選挙の行方に大きな影響を及ぼすことになりかねないので、感染のリスクを抱えつつトランプ大統領が支持者の前をパレードしたことからも分かるように、一国のリーダーの体調が不良という情報が漏れたら対外的にも対内的にも良い影響を及ぼさないことは明らか。それなのに、安倍首相は病院に行く映像をわざわざ報道させた。ただ、体調不良ではなく検査のためですよ、とか、検査の結果を聞くためですよ、とコメントすることは忘れなかった。同時に、取り巻き連中が「お前は100日以上働き続けたことがあるか?」「首相の仕事は比べるものがないほど激務だぞ」「難病を抱えている人が首相のような激務を続けることは気の毒だ」といった日本人の好む「同情心」を醸成しつつ「まだまだやり残していることがたくさんあるのに、任期途中で辞めざるを得ない首相はさぞ無念だろう」という気遣いレベルにまで同情心を成長させて、退陣表明に至る道筋をつけた雰囲気作りは見え見えだった。
私は、安倍首相が何度も何度も繰り返した「国民の皆様に丁寧な説明をさせて頂き・・・」の「丁寧な説明」を一度も聞いたことがない。国民に対する約束を一度もはたさないまま退陣してしまった無責任さに呆れたが、マスコミから批判の声は聞こえてこなかった。そればかりか、自民党総裁選のプロセスで、一人のジャーナリストが「石破さんは安倍さんに対する労いの言葉を言わなかったところが問題ですね」とTVでコメントしたのには驚いた。彼は在任中どのように日本国民を幸福にしたのか?目に見えないところでどのようなドロドロした交渉が行われていたのかいなかったのか知らないが、表面的には一連の情緒的な雰囲気作りで一国のリーダーを選ぶなんて、日本という国は何と能天気なんだ、とまた呆れた。トランプ対バイデンの討論にならない討論会の雰囲気は見ていて気持ちの良いものではなかったが、あれこそが「命をかけない天下取りの争い」ではなかったのか。
そして、とりあえず新しい首相は選出された。しかしながら、いまだに新しいリーダーからこの国をどうするかについて所信表明はなされていない。国民に対して説明しないまま、外交プランを練ったり海外からの要人と会談したりして、自分が日本のリーダーだという状況証拠だけは揃えようとしている。本当に具体的な説明は一切しないままに。私は今さらながら、日本人のアカウンタビリティについての関心の薄さに心底呆れ果てているのだ。
このような日本の現状のもと、30年前のイギリス留学で経験したことをベースにアカウンタビリティの重要性について論じることにどれだけ意味があるのかを考えると虚しい気がしないでもないが、実はこのアカウンタビリティの重要性こそが私のライフワークなのだ。このブログを読んで関心を持ってくれる人がいないとは限らないという淡い期待のもと、やっぱり整理しておこうと思う。何事にも手遅れということはないはずだから。