アカウンタビリティの重要性 比較のために(アカンタレ助教授の初海外珍道中紀行1)
タイトルの「黄昏ではなく曇天のイギリスから」が『黄昏のロンドンから』という木村治美さんの有名なエッセーのもじりだということは、私くらいの年代の人にとってはすぐにわかっていただけるのではないかと思う。1976年に出版されたこのベストセラーは、イギリスに行く人の必読書だった。当然、私も読んでイギリスに渡った・・・が、私の目に映ったイギリスはこのエッセーで語られている「斜陽の国イギリス」とは随分違っていたのである。
実は、私はイギリスに2回留学している。1回目は1983年4月から9月にかけて。当時の同志社大学の在外研究制度ではいつになったら留学できるかわからない商学部の若手研究者にとりあえず海外経験をさせる短期留学制度があった。この商学部の100万円を使って家内と二人でロンドンに行った。受け入れ先はイングランド・ウェールズ勅許会計士協会(ICAEW)の資料庫とロンドン大学政経学部(LSE)図書館であった。要するに「外国の大学を垣間見て資料を収集して戻ってくる」というこの当時ならではの簡便留学制度だった。しかし、行く方にとってはインターネットの存在しなかったこの当時、準備は非常に手間暇がかかった。先方とのやり取りは郵便に限られ、ぜひとも受け入れてほしいと願ってタイプライターを打つ私の指にも肩にも力が入った。
無事に受け入れてもらえても、LCCなど存在していなかったこの当時、イギリス行きの飛行機代がバカにならず、100万円で半年の留学が賄えるはずもなかった。この当時北回りで一番安かった航空運賃は、大韓航空で伊丹から韓国の金浦空港経由でパリにゆき、そこで英国航空に乗り換えてロンドン・ヒースローに入る、というものだった。しかし、大韓航空機にはやばい前科があったのである。5年前の1978年4月に、パリ発ソウル行きの大韓航空機が北極圏を飛行中、ソ連の領空を侵犯したとしてソ連領内ムルマンスク南方に強制着陸させられたのである。この時にソ連側の発泡で日本人が一人亡くなっていた。「大韓航空機で行く」という私に「それだけはやめとき」と忠告してくれる人は多かったが、背に腹はかえられぬ懐具合。家内と二人一緒なので、死ぬのも一緒、ま、それも良いかと大阪を飛び立った。
まだかまだかと時計ばかり見ていた金浦空港での乗り換え待ち時間を克服してようやく旅程の半ばに差し掛かった頃、私は、伊丹の大韓航空カウンターで、パリで英国航空に乗り換えることを話していなかったことを思い出した。今なら搭乗手続きの際に係員が「**までお荷物をお預かりします」と確認することを知っているが、何しろ生まれて初めての海外搭乗カウンター、しかも大韓航空。パリでの乗り換えについて聞かれたのかどうかすら記憶にない。みんなが寝静まった機内を回ってくるパーサーに聞いてみるが、「大丈夫、大丈夫」というばかり。しかし、不安の増幅と比例するかのように、預けた荷物は絶対にロンドンに届かないとう気持ちが強くなる一方。我々は一度パリで入国審査を受けて荷物を受け取ってすぐに英国航空に乗り換えることにした。
案の定、荷物はベルトコンベアにのって出てきた。それを受け取ってすぐに英国航空のカウンターに向かおうとしたが、噂通り、誰に聞いても英語が通じない。ここで、私は商学部で2年間勉強した第二外国語「フランス語」の記憶を脳の奥の方から呼び覚ます努力をしたのである。そして「ウ・エ・ル・カウントゥール・ドゥ・レール・ラングレ?」と、今でも正しいかどうかわからない辿々しいフランス語を周りの誰彼となく話したら、一人の人がその方向を指差してくれたおかげで搭乗手続ができた。英国航空は柱のすぐ向こう側にあった。
しかし、出国審査に引っ掛かった。何せ、入国してすぐに出国するのである。誰でも不審に思うわなぁ。しかも、それを説明するだけのフランス語を思い出すことは、できなかった。しかし、航空券を見せて、日本語で、「間に合わへんかったら、イギリスに入れへん!」とか何とかまくしたてたら、根負けした係官は出国のスタンプを押してくれた。英国航空の小さな飛行機の中で「ティー、オア、コフィー?」と聞かれて「ティー、プリーズ」と答えて出てきた紅茶が、まさに「black tea」であることを嬉しく思いつつ、眼下にドールハウスのようなロンドン郊外の家々を見た時に、イギリス留学の始まりを感じた1983年3月31日のことだった。(「アカウンタビリティの重要性」についての説明は、もうしばらく後に)