アカウンタビリティの重要性

昨晩、ベッドの中でWOWOW「新聞記者ドキュメント」を見た。東京新聞の望月衣塑子記者の戦闘的取材活動にへばりついたドキュメンタリーで今の政権中枢の「アカウンタビリティ=説明責任=説明義務」についての「意識の低さ」あるいは「無知」を思い知らされた。とくに、望月記者を小馬鹿にした菅官房長官の表情は眠りつつあった私の脳細胞を突ついて「起きろ!起きろ!」と刺激したし、記者会見を仕切っている官僚の「質問してくださ〜い」というほとんどものを考えない声はひと頃よく新宿末廣亭で聞いた宮田章司の江戸の売り声を連想させられた。「金魚〜ええ金魚。」半分眠りについていたけれど、脳の奥の方でブログのテーマとして一言コメントしておかなければならない気分にスイッチが入った。

実は、私は自分から望んで大学教授になろうと思ったわけではなかった。しかし、大学教授になるレールに乗ってからは、生来の真面目さからか、「大学教授=学者=研究者として何をなすべきか」ということに関してずっと頭の片隅で鼓舞する声を聞きつつ今日に至っていると思う。最初の頃の研究テーマは指導教授から示唆を受けたが、やがて自分自身の問題意識を育てて研究を続けてきた。その道筋が間違っていなかったのだということは、私の著書のベースになった論考のなかに若い頃に書いたものがほぼそのまま含まれていることからも明らかである。一つ一つの論文を書く時には意識しなかったが、本を書く際に振り返ってみると、十分に出版に耐えるものを何本も書いていたのだ。

留学も同様。アメリカのイリノイ大学やシカゴ大学に留学する会計学研究者が多かった中にあって、私は2回ともイギリスを選んだ。とりわけ1990年から92年にかけての2回目の留学で、私は最初の頃に「アカウンタビリティの真の意味とその重要性」を学んだのである。当時の日本の会計学界では「アカウンタビリティ」という英語は「会計責任」と翻訳され、「企業が財務諸表を用いて財務内容について説明すること」という意味で会計学の専門用語として通用していた。

ところが、ある日、私が2年間暮らしたレディング大学マンスフィールド学寮の経理責任者のヴァルに「日本では、首相は歩きながら取り巻きの記者にコメントするだけなのに、どうしてサッチャー首相はダウニング街10番地の首相官邸前でちゃんとマイクを立てて記者会見し詳細な説明をするのか?」と聞いたところ、彼女が「首相にはアカウンタビリティがあるから。国民に十分に説明をしなかったら、我々は次の選挙では彼女に投票しない」と「どうしてそんな質問をするのか?」と怪訝そうな顔をして私に言った時に、こちらは「アカウンタビリティという会計の専門用語をどうして普通の言葉としてヴァルが使うのか?」という疑問で私の頭は混乱した。

すぐに図書館で様々な辞書をひっくり返してaccountabilityの意味を調べたのは言うまでもない。すぐにわかったのは、アカウンタビリティが決して会計の専門用語ではなく、一般用語としての「説明責任」という意味の言葉だということであった。日本の辞書にもそのような説明があった。

私は、このテーマで、望月記者に対して菅官房長官が見せた「説明する気のない態度」が大きな問題だということを説明しようと思うが、まずは、私が書いた『黄昏ではなく曇天のイギリスから』を読んでいただきたい。これは雑誌 『會計』という伝統と権威のある 会計の専門誌に連載されたエッセーであるが、イギリス留学で会計・監査の研究者としての「コア」についてわかりやすく書いた文章なので、ぜひ読んでいただきたい。(1992年以降の私のゼミ生諸君は、読んだよね?)「アカウンタビリティの重要性」についての説明は5日後に。

「黄昏ではなく曇天のイギリスから」

 

 

 

 

 

 

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