石川九楊さんの言葉の重み

新聞に書家の石川九楊さんのインタビューが載っていた。中でも、

「中国や日本などの東アジア世界では、言葉は書くことによって根拠づけられている。『口約束』という言葉があるように、話し言葉だけでは軽んじられてしまうのです」という部分に、

強く惹かれた。

「キリスト教世界の人々は話す際に神を意識する。一方、東アジアではタテに書くという行為を通じて初めて初めて天を意識する。だから、書くことが行われなくなると、言葉の信憑性は失われ、言葉は崩壊してしまう。まさに今の状況です」という石川さんは、「声が肉声であるように、『肉文字』こそが文字であり、活字は文字ではありません」と喝破する。文字を書く行為、すなわち一点一画を書くという行為には膨大な思考と想像があるという考え方の意味するところは、実に深い。

「文字は点画を連ねて書いていくから文字になる。『愛』と自ら書くのと、アルファベットでaiと打ち込み、それを何回か変換して『愛』という言葉を選択するのはまったく違う」という石川九楊さんの意味するところは、スポーツとeスポーツが別物であるように、文字とe文字は別物だし、さらに言えば文学とe文学はまったく別物、という主張につながるのだ。(朝日新聞、1月29日、夕刊)

今日の「余一会」はこれまでとはまったく趣向が異なっているが、書斎の棚に並んでいる石川九楊さんの本のうちでまだ読んでいない部分にどんなに素晴らしいことが書いてあるかに思い至った自責の念に絡めて、ちょっと書いてみた次第。