「勉強そのものよりも受験の結果を判断基準にすること」をそろそろやめる時期に来ているのではないか

25日のブログで、私は、衆議院予算御会でのレベルの低い議論を嘆くとともに、「有名受験校から東大に入り、司法試験や国家公務員試験に合格したのちに国会議員に当選した人たちの中に、とてもその経歴を信じることのできないレベルの人たちが何人もマスコミを賑わせているではないか」と書いた。そして、最後に「『勉強そのものよりも受験の結果を判断基準にすること』をそろそろやめる時期に来ているのではないか」と結んだ。

この時期、週刊誌は競って大学・学部の偏差値ランキングや「勝ち負け表」を掲載するのが恒例になっていて、毎週のように大学名が表紙を賑わしている。近年は受験生のために参考データを示すというよりは、さながらタレントやアナウンサーの好感度ランキングと同様の人気番付化しているような印象を受けるほど。だから、受験生がランキングに振り回されて上位大学・学部に合格することを目指す気持ちを持つのも理解できないことではない。

しかし、大学入学共通テストでスマホを使った新手のカンニングをしてまで上位の大学に合格したいと考えて実行した隠れ浪人の大学1年生が警察に出頭したというニュースを聞いて、ここに書いておこうと思ったことがある。(受験生がこのブログを読んでいるとは思わないので、あくまでも私が考えていることを書き留めてておきたいと思っているだけ。)

文科省の大学入試政策は明らかに間違っている。おそらく、中学校や高等学校の教育政策も間違っている。

私たちの時代は、高校での勉強の延長線上に大学の入試があり、大学入試に失敗するということはその大学で学ぶ資格がない、すなわち学力が足りないということなので、1年かけて勉強して再度受験するものだ、と考えていた。したがって、浪人することにあまり後ろめたさはなかったし、大学生になってから講義を聞くのに学力不足だとは思わなかった。中学校と高校での勉強をきちんとすれば、その延長線上に大学での勉強があったのだ。

ところが、30年くらい前のことになるが、非常勤講師をしていたある大学で産業革命の話をしていたときに、ふと、前で熱心に聞いているこの学生諸君は産業革命のことを知っているのだろうかという疑念を感じたことがあった。聞いてみると、予想したとおり産業革命というものを知らなかった。世界史は高校で勉強しなかった、と屈託なく話すのを聞き、ショックを受けた。その大学を受験するのに必要な科目しか勉強しなかった、とも説明してくれた。世界史を勉強しなかったことに何か問題があるのですか、ここに受かったからいいんじゃないですか、と言いたそうな顔つきだった。

大学入試に必要な科目しか勉強しなかったら一体どうなるか。改めて考えるまでもなく、高校教育は偏重し、やがて空洞化することになるだろう。そして、空洞化した高校生活を送った高校生は、たとえ入試に合格して大学生になれたとしても、難しい講義を聞き専門書を何冊も読み課外活動に参加するという大学生としてのキャンパスライフを充実したものにすることができるとは、とても思えない。おまけに学費と生活費を賄うために日々アルバイトに追われるとしたら、これはもう大学生活を送っていると言えるはずがない。たとえ卒業できたとしても、その学位が学士号に相当するかどうか、極めて疑わしいことになる。

今、日本の高等教育は、その中身を真剣に見直さなければならない危機的状況にあると考えている。