東京都議会議員選挙

東京都議会議員選挙の結果、過半数に達すると予想されていた自民党+公明党が過半数に達しなかった。

この結果を受けて、小池都知事の「過労療養」が影響した、とか、立憲民主と共産の選挙協力が功を奏したとか、このところ急に目立つようになったワクチン不足が影響した、といった様々な分析が飛び交っているが、どの分析を支持するにせよ、政権与党には「国民のための政治」というすぐに剥げ落ちてしまう恐れはあるけれども一応掲げておかなければならないはずの「選挙用スローガン」すら思いつかなかったほど悔しかったらしい。

秋には必ず衆議院議員選挙が行われる。しかし、「選挙公約」が姿を変えて日本でも定着した(はずの)「マニフェスト」という言葉がいつの間にか聞かれなくなって久しい昨今、衆議院議員選挙に当たって政治家たちは国民に何を約束してくれるのだろうか。昔、幼い私は子供なりに、選挙があるたびに、たとえそれが市会議員選挙であっても、主権者がどのような判断を下したかに強い関心を持っていた。小学校の教室にラジオを持ち込み、開票速報に耳を傾けたものだった。

最近まで、政治家たちは、嘘か本当かは別として様々な約束を日本国民に示してきた。「貧乏人は麦を食え」と言われても「所得倍増計画」は貧しい日本国民の耳に心地よく響いたし、「日本列島改造論」の裏側に「私腹を肥やす金脈」があったとしても、今太閤の政治手腕に熱狂したものだった。

しかし、このところ、地元有権者を観桜会に招待して当選を盤石なものとした結果首相の地位を得た安倍晋三が、その地位を利用して自分の好きなように日本の国政を弄んでもマスコミに批判されなくなってしまった。挙句に、その首相が自分の名前を冠した小学校の設立に便宜を図ることを忖度した官僚の行為に「全くもって迷惑だ!」と激怒するどころか論功行賞で応えてもその地位に何ら影響はなかったことから明白なように、権力に阿る唾棄すべき常識がまかり通るようになってしまっている。

東京都議会議員選挙の結果は、「そんなことは間違っている、民主主義の考え方ではない」と東京都民が考えたうえでの投票結果ではなかったのではないか。

私は、今日、通勤電車の中で時間潰しに読んでいた週刊誌(『週刊現代』Dマガジン)の連載「それがどうした」の伊集院静氏の怒りの文章を読みながら、「日本国民は今怒らないでいつ怒るのか」と怒る伊集院氏に強いシンパシーを感じたため、このブログのテーマを急遽変えて書くことにした。伊集院氏は「逮捕して、なぜ刑務所に入れないのか!」とまで激怒している。

ところで、私がもともと書こうとしていたテーマは何だったのかって?実は、今日から今月いっぱい、オリンピックに因んで「同志社スポーツ」について書くつもりだった。深く反省している。