又又 大学の講義って?

前々回のブログの最後に「今の学生諸君に取りうる手段を考えてみたい」と書いたその中身はきわめて単純であって、SNSを駆使して自分の入りたいサークルやクラブを探せばいいじゃないか、ということだった。HPやFacebookが開設されていれば、アクセスするのは簡単だろう。メールや友達リクエストで連絡を取り合えれば、クラブ・サークルのボックスの場所や例会のスケジュールも教えてもらえるだろう。同じ大学・学部の新入生を探すのも、SNSで呼びかけることができるのではないだろうか。スマホを使い慣れている今の学生諸君にとって、このプロセスがそんなにハードルの高いものだとは思えない。大学が何かをしてくれるのを待っているのではなく、自分でいろいろ試してみればいい。

半世紀前の同志社大生はいわゆる「濃厚接触」の典型のような日常生活を送っていたが、それは、そうしないと友人とコミュニケーションをとることができなかったから。PCもケータイもなかったのは当然として、鉄筋のワンルームマンションではなく木造の下宿の部屋には自分専用の固定電話もなかった。友人と会うためには大学に出かけるか、クラブのボックスを覗くか、自転車に乗って友人の下宿まで出向いて窓の下から呼びかけるか、とにかく本人に会わないことには話すらできなかったのだ。

一方、1回生だった1969年は、6月ごろから全学バリストのためにキャンパスに入っても講義は半年近く行われなかった。学部事務室も図書館もあいていなかったのだ。言うまでもなく「リモート講義」なんてSFの世界でも描かれていなかった(と思う)。しかし、私の周りの友人たちは、講義が行われていなかったことに対して、別に焦っていなかった。おそらく、キャンパスの正常化を大学当局に要求するグループもあったことと思うが、同志社全体に「講義をしてほしい!」という熱気があふれていたかというと、そうではなかった。それはなぜだったのだろう。

何しろ半世紀前のことなので正確に思い出すことはできないが、おそらく、1回生ではあったけれど、大学生というものは、高校までとは違う「インテリ」として社会的な出来事を自分なりに考えて、自分なりに最善の行動を取るものだと考えていたからではないかと思う。登録した科目の勉強は先生に教えてもらわなくても本を読むことで十分に理解できる、と思っていたから、履修要項で指定されていた本を購入してきっちろ読んだのだ。それは4年間変わることはなかった。大学での勉強は、高校までとは違って自学自習が基本なのである。

前回のブログで触れた『演習要項』に書いていた「待っていてもウサギは木の根につまづかない」を、今年大学に入ったのは不運だと思っている新入生諸君に贈りたい。待ちぼうけでせっかくの時間を無駄にしないために。