ドクター・ムマモメムとは?
大学に入ってすぐのことだったのか、それとも大学なんかとっくの昔に卒業した後の話なのか、すぐには思い出せないが、子供の頃からよく知っている近所の1歳年下の「後輩」から「ムマモメムって、百合野のことやったんか?」とびっくりされたことがある。「後輩」とカッコ付きで書いたのは、大学に入るまでは後輩だった彼と大学で同級生になってしまったから。キャンパスで初めて名前を呼び捨てされたとき、私は彼に「生意気だ」と食ってかかったらしいが、はっきりと覚えていないものの、ありえない話ではな。というのは、この当時の同志社大学商学部では現役よりも浪人の方が多くて、しかも浪人は三浪くらいまでいたから、同学年であっても自然と歳上には敬語を使っていたのだ。だから、明らかに年下の彼に呼び捨てにされてカチンときたのだろう。そして、言うまでもなく、一浪よりも二浪が尊敬され、二浪よりも三浪が尊敬された。(もちろん、浪人した理由も尊敬されるかどうかの一つの要素ではあったが・・・)
現役の方がずっと多くなった今の商学部の学生諸君にこんな話をしても怪訝そうな顔をされたり、内心「浪人するなんてよほど成績が悪かったんだろうなぁ」と小馬鹿にされるか同情されるだけだろうが、この当時は、大学生になるということにはそれくらい重い意味があったのだ。このことは「ドクター・ムマモメム青春記」というカテゴリーを作った動機の一つに他ならない。。
さて、この「ムマモメム」という名前は私のラジオネームだった。以前の「余一会」で「実は、中学生から高校生にかけては、KBSラジオの『ゴールデンリクエスト』とラジオ大阪の『題名のない番組』での桂米朝と小松左京のトークにものめり込んだ」と書いたが、ただ二人のトークを聞いていたのではなく、毎週のように投稿していたのだ。この「投稿」というのは番組内でかけられる曲目をリクエストすることではない。古典のパロディを作ったり、番組内での話題に深く関わる気の利いた話を葉書やその他の媒体に書くことを意味しており、番組内でそれらが紹介されることは極めて名誉なことだったのだ。正直言って、このパロディ作りに使った時間の半分でも受験勉強に充てていたら・・・と思わないでもないが、ま、そのうちに書くことになる「神の見えざる手」は受験勉強よりもパロディ作りを私に選ばせて、そして同志社大学商学部へと導いたのだ。全く悔やんでいない。私と同じように「天壇ゴールデンリクエスト」にのめり込んだ人のブログにリンクを貼るので、関心のある向きは読んでみてください。
再び、さて、この「ムマモメム」という名前はNHK「ひょっこりひょうたん島」の登場人物の名前だった。
しかし、数多い登場人物の中ではひときわ存在感の薄い人物だったのだ。Wikiでも、
「トラヒゲが持ってきた大金庫に閉じ込められていた医師。医者としての腕は確かなのだが、『戦争してくれれば患者が増える』など不謹慎な発言も目立つ。笑い方は『ヘラヘッヘ』。次第に出番が少なくなり、中盤で何の説明もなく姿を消してしまう(スタッフ達により『面白くないから消そう』ということで、説明なしにいきなり消された)。リメイク版では『アラビアンナイトの巻』の冒頭で博士に『島を去った』と説明されたが、詳細は語られなかった」
と書かれるほど。これをラジオネームにしたのは私がきわ物好きだったのか大衆迎合を嫌ったのか、ま、そんなところではないかと思っていたのだが、実は、書斎の整理をしていると下の初日カバーが出てきたことで、推理の道筋が少し違ったものとなった。
これは「アボガドロの法則」や「アボガドロ定数」にその名を残すアメデーオ・アヴォガードロ(今はそう表記するらしい)の没後100年を記念して発行された切手の初日カバー。これを見て思い出したことがあった。実は、高校時代の私のあだ名は、「コロッケぱん」と「アボガドロ」だったのだ。「ムマモメム」と「コロッケぱん」と「アボガドロ」、見た目がよく似ているではないか。
と、ここまで書いてきて今日の字数が尽きようとしていることに気がついた。もともとここまで書いてきた内容は「本論」から外れているので、ムマモメムが消えたようにどこで終えても構わないのだが、ブログを書くために調べたところによると、「ひょっこりひょうたん島」は1964年4月6日から1969年4月6日までの月曜日から金曜日に放送されていたそうなのだが、問題は17時45分から18時までという放送時間帯。中学3年生から大学に入る年まで毎日この時間帯にNHKを見ることができたというのは一体どういう生活を送っていたのだろう。ま、高校について書く時期が来たら、当時の手帳を探し出して読んでみることにしよう。当時の手帳が残っているのか、って?私の書斎は鉱山のようなもの、とだけ書いておこう。