日本人ノーベル賞受賞者がアメリカ国籍を取得していたことの意味すること

甘利明の説明責任について書いていた5日、今年のノーベル賞物理学賞の発表があった。AppleWatchが「5分後にノーベル賞の発表があります。生中継をします」というので、iPhoneで見た。小さい画面では良くわからないが、確かに「シュクローマナベ」と言ったような気がしたので、慌ててNHKテレビをつけたら、確かに真鍋淑郎プリンストン大学上席研究員が物理学賞を受賞したと報じていた。

この出来事に関連して、私はまず、生中継でノーベル賞の発表を聞くことができるようになったことに感動した。私は、中学2年生の時に、アメリカと日本との間で太平洋を越えたテレビの衛星中継が行われるのを固唾を飲んで見ていた。午前5時28分(と、新聞には書いてあるが、私自身の記憶はない)テレビに映し出された映像から流れた音声は「悲しいニュースをお知らせしなければならないのは大変残念です。ケネディ大統領が暗殺されました」というショッキングなもので、言葉に言い表せない衝撃を受けた。何日か後に、祖父に連れられて京都のアメリカ総領事館(多分)に記帳に行ったことを記憶している。

それはさておき、真鍋淑郎氏は90歳(!)、1958年にアメリカに招かれたのは「修士論文の内容が高く評価されたから」とのことだが、アメリカが戦後の混乱期の日本の大学院生の修士論文を読んでいたことにまず驚かされるが、その論文を高く評価してアメリカ国立気象局に高給で招聘するとともに、当時は貴重だったコンピュータを自由に使わせたというアメリカの懐の深さに改めて感動した。真鍋淑郎氏はアメリカ国籍を取得した理由について、「日本のような社会では私は生きていけなかった」と言い切って、アメリカ人マスコミの笑いを誘ったが、私はノーベル賞受賞学者の「厳しい一言」を聞いた。

日本では、教育・研究はアベスガ時代に特に顕著になったが、それ以前から「すぐに役立つべき」ものと考えられ、軽んじられてきていた。これは大学に限られたことではなく、中学・高校教育もの空洞化にも如実に現れていた。このことは、大学教員の誰もが教室で感じたことだったろう。大学生のレベル低下は「ゆとり教育」が終了したことで上向くことなく、ますます目を覆いたくなるほど酷いレベルに落ちていったのだ。大学生は、自分たちが自発的に学び・研究する存在だということを知らないのだ。「わかりやすく教えてください」と屈託なく言う大学生の顔が私には小学生に見えた。

首相補佐官と厚労省高級官僚が山中伸弥教授に「iPS 研究予算を2020年度で終了する」と宣告するついでに京都旅行を楽しんだと週刊誌にすっぱ抜かれたのはいつだったろう。ノーベル賞受賞者に平気でそのように言い放った二人は、自分たちにはその権限・権力があると思い、実際に見せつける快感を得たいがために出向いたのだろう。このような高級官僚がいる限り、日本の高等教育・研究のレベルが上がらないのは容易に想像できる。「憲法学者のいうことを聞いていたら政治はできない」と言い放って憲法に違反した政策をとる首相は、公職選挙法や政治資金規正法を守る気持ちなぞこれっポチも持ち合わせていないのだろう。

しかし、民主主義の根幹を脅かすそのような行動を絶対に許してはいけないのだ。