おちょやん

今の若い人たちにとって「新喜劇」といえば「吉本新喜劇」以外にないだろう。しかし、私の子供時代から相当長い間、「新喜劇」には「松竹新喜劇」と「吉本新喜劇」の二つがあった。また、松竹には渋谷天外の「新喜劇」のほかに曾我廼家十吾の「家庭劇」もあった。で、NHKの朝ドラ「おちょやん」は、この松竹家庭劇が出来ていくプロセスを軸に物語が展開していく。浪花千栄子がおちょやんのモデルだということは知っていたが、浪花千栄子が渋谷天外の最初の奥さんで、二人いっしょに松竹家庭劇を支えていたことは知らなかったし、渋谷天外よりも曾我廼家十吾の方がずっと人気があったということもこのドラマで初めて知った。いろいろなエピソードが現実の話と繋がり、子供時代の記憶を呼び覚ますので、ほぼ毎朝、楽しみに見ている。

たまたま「人生双六」の台本を上演するという回を見て、子供の頃、南座で何回かこの上演を見たことを思い出した。

実は、松竹新喜劇は、私にとって大人の階段を登るプロセスで大きな影響を受けた一要素なのだ。小学生にとってはけっこう難しい台詞だったろうと思うのだが、藤山寛美のおかしさが難しさを凌駕していたのだろう。松竹新喜劇が教えてくれた「株式投資の恐ろしさ」は監査論の研究者にとって微妙な関連を有しているが、やっぱり「株は怖い」という子供の頃の「刷り込み」の影響は大きくて、監査論フェアな株式市場を研究テーマにしているにもかかわらず、私は現在も一株も持っていない。

ずいぶん前のことになるが、証券不祥事に絡んで野村証券に聞き取りに行ったことがある。応対してくれた担当部長は、野村証券が一般投資家をゴミ扱いにしていたことは棚に上げて、マスコミが株式投資のリスクばかり強調するから一般の人たちに間違った衣装を与えてきていると強弁したが、私はその場で松竹新喜劇の演目に株式投資に失敗した話がいくつもあることを例示して、これまでどれだけ一般国民に損をさせてきたかという自覚があるかどうか尋ねたが、先方は全く意識していないことを知り、呆れたことを今でも思い出す。

松竹新喜劇が表舞台から姿を消してずいぶん時間が経ったが、一般庶民がひとつの喜劇の舞台からいろいろなことを学ぶ機会がなくなってしまったことは、単に寂しいというノスタルジーのレベルの問題なのでなく、日本人としての「共通項」を失ってしまったという事実を見せつけられて唖然としている。