百合野の監査論 第9回 戦前の株式会社金融・株式市場・情報の公開

この講義はやたらと休講が多いように感じられるかもしれませんが、私の指定した『会計監査本質論』と、余力がある人に指定した『日本の会計士監査』を読むためには時間が必要でしょうから、休講を大いに活用してください。思い返せば、私が同志社大学商学部に入学した1969年の今頃は、6月に突入した「全学バリケードストライキ」が継続中で、ずっと正規の講義は行われないままでした。EVEもありませんでした。

しかし、会計学研究会の例会はスケジュール通りに行われていたので、私たち1回生はその予習と復習に追われていました。もちろん、大学で授業が行われないのは異常なことです。しかし、当時の大学生にとっては授業が全てではありませんでした。ほとんど出席しなかった講義だっていくつもありました。退屈な講義に出席するくらいなら、その90分を読書や音楽や美術の鑑賞に回した方が有意義だ、と考えていた大学生は多く、中でも本を読むことは大学生にとって非常に重要な行為だと認識していました。もちろん、難かしい本もあるでしょうが、それを苦労して読むのは大学生の責務です。さ、頑張って『会計監査本質論』を読み進めてください。

さて、今日のテーマ「戦前の株式会社金融・株式市場・情報の公開」は、戦前の日本でどうして会計士監査が制度化されなかったのか、その理由を別の角度から考えてみようという、多分全国の大学の監査論の講義では全く取り上げられていないと思われる内容です。

一般的に言われているように、現在でも日本は間接金融に主軸を置いています。すでにお話ししたように、戦後GHQによって行われた証券の民主化政策で直接金融へのシフトが図られたものの、すぐに個人投資家の比率は低下しました。私が所属した岡村正人ゼミでは「株式会社金融の研究」がテーマでしたが、1970年代でも株式の時価発行や転換社債の発行などは日本ではほとんど行われておらず、もっぱらアメリカの実務を翻訳して勉強していました。

ましてや、戦前の日本では直接金融などとるに足らないものだった、と思われています。しかし、これは間違いなのです。詳しくは『会計監査本質論』の第2章第4節を読んで欲しいのですが、1930年代の戦時体制移行前の日本の金融システムに関して次のような研究があります。

1 家計の金融資産の配分

  • 通貨から預金へのシフト(1910年代半ばまで)
  • 証券(株・債券)が粗家計資産残高の約半分を占める
  • 証券が広く担保として利用される(特に1915年以降)

2 資金供給

  • 株式発行による資金調達の優位
  • 債券発行と銀行貸出がほぼ同程度に重要

3 銀行業務の範囲

  • 社債引き受けにおける銀行の優位
  • 企業向け貸出より個人向け貸出が一般的

4 コーポレート・ガバナンス(企業統治)

  • 株主がコーポレート・ガバナンスを主導
  • 通常、取締役会には銀行出身者はいない
  • 通常、財務危機に陥った企業の再建を銀行が主導することはない

この研究では、さらに次のように述べられています。

「この時期は、株式による資金調達が銀行借入や社債発行よりも重要だった」

「この時期の日本の金融システムは日本自身の戦後のシステムよりも、アメリカの戦後の金融システムに類似していた」

「適当な規制環境の下では、日本企業も株式・社債市場で資金調達を行おうとするのであって、銀行優位の金融システムに対する日本人固有の選好など存在しないことを示す」

「株式会社は次第に日本における大企業を組織する最も一般的な方法となっていった」

「勧銀と興銀は資金を調達するために金融債の発行が許可された。そうすることにより特殊銀行の成功は、発達した債券市場の存在に依存することになった」

「(家計の金融資産の配分において)証券の比率が50%を若干下回っていた1917年から19年を除く全期間で、証券が資産の大部分を占めていたことになる」

「この時期、銀行は支配的な資金供給源ではなかった。資金調達は、株式の発行によるものが中心であり、社債も銀行融資とほぼ同じくらいの重要性を持っていた」

この研究によると、「日本は間接金融の国だから、直接金融に必須の会計士監査やディスクロージャー・システムは発展しなかった」のではなく「日本は直接金融の国だったにもかかわらず、直接金融に必須の会計士監査やディスクロージャー・システムは発展しなかった」ということになります。このように、明治・大正時代のわが国において会計士監査の重要性について白熱した議論が展開されていたときに、すでに現実に直接金融市場が十分に機能していたということは、会計士監査制度を成立させなかった政府のかたくなな姿勢に対しては、大きな疑問がわくわけです。

その理由を探ると、当時の資本提供者の性格が明らかになりました。簡単に言うと、明治後期に至っても地縁・血縁の色濃い少数の出資者つまりお金持ちによって資本が提供される傾向が強く、株主が積極的なモニタリングを行っており、財閥系、非財閥系を問わず「大株主が経営を監視していた」のです。

さらに、財閥は、財閥傘下の各企業に取締役を派遣する以外にモニタリングの規則を有していました。例えば、住友では、傘下企業は目論見書と決算書を持株会社である住友合資に提出しなければならないというルールが住友家会計規則にあって、それが社訓に引き継がれていました。このことは「傘下企業の計画書と事後的な活動報告の両方を入手する地位にあった」ことを意味しており、三井と三菱も子会社を監視する同様の枠組みを持っていたのです。

ところが、財閥自身は、財産状態、営業成績を公告し、何人にでも展示しなければならない義務を負うことを嫌い、株式会社制度導入にともなうディスクロージャーを忌避していたのです。なんと身勝手な!

一方、株式取引を仲介する取引所はどうだったのでしょう。

株式取引所以前に存在していた商品取引所の日本における歴史は古く、『東京株式取引所50年史』によれば、沿革は「遠く源を徳川幕府時代の帳合米制度に発したるものにして、夙に商業の中心地たりし大阪に於て発達したるが、江戸に於て米商会所を允許したるは、今より198年前、即ち享保15年7月(西暦1730年)なり」と誇らしげに書いています。この大阪堂島の帳合米制度に端を発する日本の近世米市場については、多数の研究書が存在していますし、また、この堂島や桑名の米相場を手旗信号で日本各地に伝えた「旗振り通信」や「旗振り山」についても、読みやすい本だりますので、関心のある諸君は読んでみてください。けっこう面白いですよ。

これ以降、日本各地に米相場会所が設立されました。ところが、明治政府は「是等の会所を賭博所と同視し、明治2年4月を以て大阪堂島の石建米商内を禁止し、其の他、各地に於ける米延商内も亦之を禁止し、米相場会所の閉館を命じ」たのです。たしかに、堂島米会所は世界で最初の先物取引を行うなど、先進的な商品取引所であると高く評価される反面、投機的取引の場所としての悪名も高かったのです。ようやく1876(明治9)年に米商会所条例が布告され、次いで1878(明治11)年にこれにならって株式取引所条例が布告され、直ちに東京株式取引所(現東京証券取引所)、大阪株式取引所(現大阪証券取引所)が設立されました。

 このように、江戸時代からの伝統で投機的性格を色濃く有していたわが国の株式取引所においては、ディスクロージャー制度と会計士監査はむしろ、取引所の投機性を薄めてしまうという意味で、大株主ではない市場参加者(投資家と言うよりは投機家)の歓迎するところではなかったのではないかと思われるわけです。

つまり、機能株主としての大株主は自ら情報を入手する立場にあり、他方の無機能株主としての証券投機家はとくに情報を求めていなかったとしたら、両方ともディスクロージャーと会計士監査を制度化してほしいとは思っていなかったのです。

さらにもう一つ重要なことがあります。それは、明治政府が、公会計の記録システムを複式簿記で始めておきながら、まもなく単式簿記に移行させた他と言う事実があるということです。これは、あまり広く知られていませんが、現在の日本の財政の不均衡に続く重要な事実です。詳しくは『会計監査本質論』の第2章第5節を読んでください。

この部分については、「太政官政府の時代には、当時の国家のガバナンス・レベルに相当する天皇から委ねられた財産の管理・運用について、太政官政府は、そのマネジメント・レベルとしての業務執行上の意思決定について、その責任を明らかにすべきであるという企業会計と同様のアカウンタビリティが求められていたのではないか。従って、企業会計と同様の複式簿記による会計処理によって、マネジメント・レベルとしての太政官政府の意思決定を評価することが求められたと考えられる。これに対して、旧憲法の制定によって、立憲主義的な議会制度が導入されたことに伴い、予算編成権は行政権に帰属するとされた一方で、議会の協賛を経るという手続が要求されることとなった」ために、技術的な理由で単式簿記・現金主義を採用せざるを得なかった、という桜内文城氏の研究があります。

しかし、この当時は、企業会計の考え方そのものが広く行き渡っていたわけではありません。旧商法は1890(明治23)年に制定されたものの、その一部実施は1893(明治26)年、新商法は1899(明治32)年に施行されましたから、企業会計に合致するとかしないとかの議論ができるほど企業社会が成熟していたわけではなかったと考えられます。私は、複式簿記の長所そのものが内包する重要なことがあると思います。それは、出納の形跡を明確に把握することのできる構造を有している複式簿記システムは、当初は明治政府にとって都合の良い仕組みであったけれども、やがて政府にとって都合の悪い仕組みになってしまったからではないか、と私は推察しています。

つまり、複式簿記を導入した際に高く評価された複式簿記の利点としての説明能力の高さは、説明させることが重要である場合には利点となるものの、逆に、見せたくないものや隠したいことがあった場合でもそれらを明瞭に見せてしまう仕組みを持っているということを意味しているので、国家のガバナンス・レベルの意思決定にとって秘密にしたい情報があるような場合にはそれを隠せなくなってしまうという欠陥を有している、ということを意味しています。言い換えると、複式簿記は常に単式簿記に勝っているわけではなく、複式簿記よりも単式簿記の方が有用であると考えられるケースも存在していることとなり、明治初年の公会計のこのケースはまさにそれに該当すると思っています。

今では黒澤清と言えば映画監督が有名ですが、会計の領域では「神戸の山下(神戸大学の山下勝治教授)、国大の黒澤(横浜国立大学の黒澤清教授)」と讃えられた権威のある会計学研究者でした。その黒澤教授は、次のように書き残しておられます。「資本主義のエートスは、単に道徳的意味をもつだけでなく、近代企業の荷ない手(資本家、企業家または経営者および従業員)の責任倫理、すなわち現代会計学の概念をあえて、ここに適用するならば、アカウンタビリティー(Accountability=企業の会計責任と呼んでおく。)にほかならないと確信する。」私は、まさにこの考え方を企業の担い手にのみ限定するのではなく、国家経営の担い手にも当てはめて考えることにより、わが国の公会計が当初の複式簿記から今日の単式簿記に移行させた理由を推測できるのではないかと考えています。

明治初期の公会計の整備のプロセスでは、次のような動きがありました。

1 複式簿記が備える「説明能力の高さ」が明治初年の日本でも高く評価された

2 その複式簿記の本質を理解したうえで、公会計の領域に複式簿記が導入された

3 やがてわが国の公会計の領域では説明することが邪魔になった

4 直ちに複式簿記を単式簿記に切り替えた

明治政府がディスクロージャー制度と会計士監査制度を構築しなかったことと、および、この公会計において複式簿記が単式簿記に置き替えられてしまったことは「根っこの部分」でつながっていると考えています。これは、きわめて重要な歴史的事実なのです。

つまり、大株主は必要な情報を入手することができると同時に自分自身のディスクロージャーは忌避し、一般投資家は投機家の立場で特段情報を必要とせず、明治政府は公会計で複式簿記を単式簿記に移行させたことから明らかなようにアカウンタビリティの重要性を明確に認識すると同時に自分自身の情報公開は忌避していたのです。「会計士」や「会計監査士」が生まれれうはずがありません。