国会での所信表明と代表質問を聞いて
このところ退職前のような忙しい日々が続いている。4月から8月までの、あのAmazonプライムで連続ドラマを見ていた日々は何だったのだ?今も新幹線の中でこのブログを書いているのだが、もう一つ「面白く読んでもらえるテーマで文章を書こう」という気にならないのは、コロナ禍の先行きの不透明さやアメリカ大統領選挙運動の見苦しさもさることながら、何よりもわが国の国政の茶番劇が不愉快この上ないから。
菅首相は1行ずつ原稿に目を落としながら「語る」ので、言葉がこちらに届いてこない。質問されたら同じ返事を繰り返すので、虚しい気持ちでいっぱいになる。「別の言葉で説明していただけませんか」とさらに質問する聞き手はいないので、それでお終い。極め付けは、所信表明演説で「国民の皆さんの期待もそこにあると思う」と言うべきところを「国民の皆さんの期待もそこそこにあると思う」と原稿を読んで、議場のざわつきにふと我に帰ったものの、薄笑いを浮かべただけで言い直さない始末。緊張感のない所信表明演説となった。これが国会か?
さらに、菅首相の著書『 政治家の覚悟 』の2012年単行本版にあった「公文書の管理の重要性」についての記述が2020年文春新書版では削除されているとか。(「とか」と書いたのは新聞報道によっているから。)活字にした自分の主張をなかったことにする政治家を信じられるだろうか。イヤな時代になったものである。
と言うわけで、今回は、去年の9月21日号の『チャペルアワー案内』に書いたエッセイを収録しておきたい。題名の「君等宜しく改革家となりて此不潔なる天下を一掃し賜へ」というのは新島襄が古賀鶴次郎という同志社の学生に宛てた手紙の一節である。
新島襄は「将軍の子供が将軍になるのではなく、将軍を入札(選挙)で選ぶ国」を見たいと思ってアメリカに渡ったが、帰国してみると、明治新政府は単なるサムライの政権交代に過ぎなかった。「ひと一人は大切」だという信念を持っていた新島襄にとって、日本国民のことを考えない近代国家は不愉快この上なかったことだろう。同志社の完成まで200年かかると勝海舟に語ったと伝わる新島襄の炯眼については今年1月15日のチャペルアワーの奨励が印刷されたら改めてここで紹介するとして、今回はその露払いでお茶を濁したい。