第2回大阪落語祭 大阪松竹座公演
このところ博多・天神落語まつりシリーズが続いているが、実は、今日も落語について書く。大阪落語祭と銘打った興行は今年が第2回ということらしいが、去年の第1回についても今年の第2回についても私は全く知らなかった。近年、私にとって、落語は、東京に行った折に時間があれば新宿末廣亭・上野鈴本・浅草演芸ホール等で見るものになっていたため「天満天神繁昌亭に行きたいね」と家内に希望的発言はするものの実際に出かけるには至っていない。
今年の大阪落語祭についても全く知らなかったのだが、先日たまたま松竹座の公演の案内メールが松竹から届いたので、間際だったけれども切符が買えるかどうか調べてみたら、11列目の端っこの2席が買えたので、久しぶりに家内と道頓堀まで出かけた。
左のポスターでわかるように、口上に加えて中入りが2回、長丁場になることは想定の範囲内だったが、案の定、長かった。長かったけれども、久しぶりに上方落語を堪能した。
中でも、米團治の成長には驚かされた。私の印象は、米朝の息子だけれども米朝との差を縮めることは不可能、「米朝の御曹司」の肩書きで終わるのだろうなぁ、といったところだった。しかし、今日の米團治の話ぶりから米朝の芝居話を聞いているかのような錯覚を覚えたのだ。当代の東西の歌舞伎役者のモノマネもなかなかのもの。見事に大看板の表情が脳裏に浮かんだ。芝居話と同類のお茶屋遊びの話もさぞかし楽しく聞かせてくれることだろうと思った。実は、若い頃に米朝や春團治の落語でよく聞いた「親子茶屋」に出てくる「狐釣り」は今でも遊べるのか先斗町の芸妓さんに聞いたことがあるのだが、誰も知らなかった。よほど昔の話なのだろう。
文珍が新作落語を溌剌と演じていたのに対して、文枝は「老いたり」という印象を受けた。話そのものはさすが新作落語の文枝だけあって面白いのだが、今日は声が通りにくかった。古典落語を話す噺家だと声が聞こえにくくなっても「いい具合に芸が枯れてきたなぁ」と、むしろ前向きに評価されそうだが、今日の話のように若い人の出てくる新作落語だと、若いエネルギーの不足が否めず、文枝はこれから先ますます痛々しくなるのではないかと、寂しさを感じた。
仁智の落語は初めて聴いたが、底抜けに馬鹿馬鹿しいユニークな展開で、面白かった。さすが上方落語協会会長!
鶴光は故あって大阪に住めなくなったので東京に本拠を移したのだとばかり思っていたのだが、今日の話から東西できっちりと地盤を固めていたことがわかり、めでたしめでたし。アクが抜けていい具合に老けてきたなぁ。
ちょっと残念だったのは福團治。演じた「井戸の茶碗」は先日の博多・天神落語まつりで柳家権太楼の丁寧な噺を聴いたばかりだったので、今日のストーリー展開ではこの噺の肝である三人の登場人物の姿が浮かび上がってこない。上方落語と江戸落語の「違い」を感じさせられた一席となった。ま、81歳という年齢を考慮すればお釣りが来る勘定になるのかもしれないが・・・。
いずれにせよ、私が上方落語を聞き始めたのは米朝・松鶴・春團治・小文枝の四天王プラス小春團治・松之助等の落語がきっかけだったのだが、ようよう復活したばかりの上方落語が、今や総勢270名の落語家を擁する大世帯になったと聞き、もしも私が米朝に弟子入りしていたとしたらどのような立ち位置にいることになるのだろうかと、ふと頭の片隅で思った。