打落水狗

時間の経過とともに森喜朗バッシングは凄まじいものになってきた。まさに「溺れかけている犬は徹底的に叩け!」やね、と娘に言いながら、この格言が正しいかどうかネットで確かめた。すると、いつも学生に言ってきた「ネットの情報は軽々しく信用してはいけない」状態が繰り広げられることになった。

この格言を中国語では「打落水狗」と書くことはすぐにわかったのだが、これが魯迅の言葉だということに関連して、多くのHP(どうでもいいようなことだが、このところMacbookAirの日本語の変換が変で、この場合「HP」と打ったら「裏寺」と変換した。意味不明)に「出典は『阿Q正伝』」とある。しかし、この目で確かめたい。

便利なことに、著作権の切れた著作はネットの「青空文庫」で読める。

『阿Q正伝』を読んだことがあるのかないのか記憶がないので、ざっと目を通した。しかし、それらしい記述がない。念のためにキーワード検索をしてみたが、やっぱり見つからない。「犬」も「狗」も、使われている気配すらない。

もう一度ネット検索し直した。すると、「打落水狗」が『阿Q正伝』ではなく「フェアプレイはまだ早い」という評論に出てくることと、この評論が岩波文庫の『魯迅評論集』に収められていることが分かった。ところが、これは「青空文庫」では読めず、国立国会図書館のデジタル資料でも読めない。私には読んだ記憶がないので多分『魯迅評論集』を持っていないとは思ったが、念のために書棚を見に行ったら、やっぱり見つからなかったが、『阿Q正伝・狂人日記』(岩波文庫)は見つかった。え?読んだことがあったのか、と思いながら家内に見せたところ、「それ私の」と言われた。

冒頭の部分を読んだ。青空文庫よりも読みやすい。青空文庫が井上紅梅訳なのに対して、岩波文庫は竹内好訳なのだ。どうやら世代の違いか?いずれにせよ「フェアプレイはまだ早い」は原文に当れなかったものの、意味を確認することはできた。

「女性は立場をわきまえるものだ」という趣旨の発言がこれだけの大問題になったのは、日本社会の「男尊女卑」目線が、今回は東京オリンピック・パラリンピックの開催と関連して国際的な注目を引き、世界各国のから囂々たる非難を浴びたからだろう。日本の閉鎖性の一端がバレてしまったわけだ。

しかし、このところの日本にとって、重大な問題点は森発言と二階幹事長発言だけではない。「わきまえる」ことが「忖度」と同義視されていないか、「空気を読む」ことを強制されて「熟議が疎かになっていないか」、「説明責任」を「説明すること」と思い込んでいる責任者はいないか・・・。東京オリンピック・パラリンピックで国際的な注目を集めている今、我々の記憶に鮮明ないくつもの「溺れかけている犬」を思い出して棍棒で叩くことが、今の我々に課された責任ではないか。しかし、「これまではともかく、これから先はきっちりするためにはどうすればいいか、議論しましょう」と、いつものようにお茶を濁されたりして・・・。