「見えないものが見える」怪

前回、私の父が「虫の知らせ」あるいは「第六感」に特別な感度を備えていたのではないか、と書いたが、私は「第六感」あるいは「虫の知らせ」を明確に自覚したことはない。しかし、実は、私には「見えないもの」あるいは「見えてはいけないもの」が「見える」あるいは「見えた」経験がある。

最初の経験は日本郵趣協会のJAPEX(全国切手展、ちなみに今年は第55回がコロナ禍のもと東京都立産業貿易センター台東館で開催された)が池袋のサンシャインシティで開催されていた頃のこと。テーマチック部門の審査を担当していたので近くにホテルに3〜4連泊することになっていた。その年もいつものホテルにチェックインしたのだが、部屋に入ると例年よりも広くて「これはラッキー!」と喜んだ。その夜、ふと目がさめると、ベッドの足元の左側の部屋の隅に、ダースベーダーのような印象の大きな男の人が一人立っていた。全体が黒っぽくて、顔は見えないものの、映画『帝都物語』の嶋田久作がそこにいるように感じた。動く気配はなく、私はそのまま眠ってしまった。

翌朝、審査員会でこのことを話したら、「ここは巣鴨プリズンの跡やからなぁ」という人がいて、処刑された軍人の幽霊だろうということで落ち着いた。私はそのことを特段怖いとは感じず、その夜も次の夜も同じ位置に出てきて私を目覚ませる彼を確認しては、再び眠りに落ちた。

次の経験は、私が学生時代に所属していた岡村ゼミの先輩から同期会を開催するにあたって今出川キャンパスを案内してほしいと言われ、至誠館と5階の渡り廊下で行き来できた扶桑館の5階の東北の隅の教室を抑えて、エアコンを入れに行った時のこと。至誠館から渡り廊下で扶桑館に入った瞬間、左側のゼミ教室のテーブルの向こう側で白衣の(多分)女子学生がうずくまって床の上の何かを探しているのを横目で見つつ、廊下を挟んで向かい側の予約しておいた教室に入ったら、すでにクーラーが効いて涼しくなっていた。

研究室事務室のどなたかが気を利かせてスイッチを入れてくださったのだろうと思って至誠館5階の事務室に行ったら、どなたもスイッチ入れていないとのこと。え?と思いながら、先輩方を待つために扶桑館5階の教室に戻ったら、教室は全く涼しくなかったのだ。腑に落ちないまま事務室に戻ってそのことを話したら、ある古参の女性職員の方がおっしゃるには、

「先生、ご存知ないのですか。あの教室は、もともと扶桑館が工学部の建物だった時代には研究室があったのですが、何人かの先生がご病気になられたり事故に遭われたりしたことがあって、いつの間にかどなたも使われない『開かずの間』になっていました。工学部では、キャンパスの鬼門にあたるので、何かの祟りではないかと噂していました」とのこと。

じゃあ、あの白衣の女子学生は実験系の女子学生だったのかと合点がいったが、詳しいことを調べる気にはならなかった。その部屋は比叡山はもちろん妙法も見えるので大変気に入っていたので、ゼミ教室に使っていたが、すぐに教室変更してもらったことは言うまでもない。今は商学研究科の大学院生の共同研究室になっているが、特段の悪い噂は聞いていない。

三つ目は、関西監査研究学会の夏合宿。組織のガバナンスの実例として、3.11東北大地震の津波被害で児童74名と教職員10名の犠牲者を出した石巻市の大川小学校のケースを学習しに行った時のこと。「小さな命の意味を考える会」代表の佐藤敏郎さん(ご自身の6年生のお嬢さんも犠牲になった)のお話を伺いながら、校庭の向こう側の崖を見ていたら、数人の子供達が崖の真ん中あたりの平地ではしゃいでいる様子が見えた。あそこに平地があるなら、どうしてそこまで逃げなかったのだろうと思いながら佐藤さんのお話を伺っていたら、いつの間にか子供たちは姿を消していた。

え?、と思いつつ周りの研究会メンバーに「あそこに子供たちがいたよね?」と聞いたところ、誰も子供たちを見ていなかったことを知った時、私は「またか」と思ったものの、子供たちが立ちすくんでこちらを見ていたのではなく、楽しそうにはしゃいでいたことを救いに、大川小学校で見たことを封印した。

この脈絡のない三つの経験は、特に何かを言おうとしてここに書いたわけではない。いずれ「神の見えざる手」について書く折にもう一度触れることになるだろうと思っている。