魔改造の夜 補遺

昨日のブログに「昨今流行りの『能力主義』とは全く無縁」と書いたが、バブル崩壊以降の経済停滞から抜け出せない日本社会を発展させるためのキーワードとして使われてきた「能力主義」という言葉のインチキさがずっと気になっていた。誰が誰の能力をどのように判定するのだ?何のために?

デフレから脱却できないのは「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」という日本的経営の三種の神器が足枷になっているとまことしやかに主張されてきたが、この三種の神器は、もともと日本の高度経済成長を支えた大手企業の成功要因として指摘された日本の雇用管理の特徴を示す言葉だったはず。「終身雇用」を前提として会社は新卒一括採用した新入社員を企業内教育によって優秀な人材に育てる。「年功序列」は社員の忠誠心を高めるとともに人生の将来設計を立てるためにもに有効に機能した。「企業内組合」は社員の満足度が高ければ労使対立は無駄であり労使協調が望ましいことになる。つまり、各企業にとって優秀な社員が長期にわたって安定的に一致団結して働くことは非常に望ましいことであり、それは同時に働く側にとっても望ましいことであり、実際に日本企業の高度成長を支えたのだった。

しかし、「能力主義」という言葉はいとも簡単に日本的経営の三種の神器をぶち壊してしまった。そして、三種の神器がぶち壊されることによって、労働者の人生も、ものの見事にぶち壊されることとなってしまった。労働コストを下げることが企業にとってメリットになった時期もあったかもしれないが、「優秀な社員が長期にわたって安定的に一致団結して働く環境」がなくなったことによるデメリットの方が企業にとってはるかに大きかったのではないか。もちろん、働く側にとってデメリットになったことは言うまでもない。「一億総中流社会」はものの見事に消え失せた。

暗い話で、この「余一会」で扱うテーマではないと思われる方もおられようが、年末の片付けをしていて見つけた『小学 社会 3年上』の「町のくらし」の中にサラリーマンの仕事帰りの様子が描かれているのを読み、太平洋戦争が終わって20年もたっていない(昭和33年、1958年)頃の日本社会の方が今よりもずっと豊かな気がして、「余一会」で書いてきたような「趣味」を今の若い人たちが楽しむ日常が果たしてやってくるのだろうか、ちょっと気にかかり、今年の終わりに書いた次第。

明日から始まる新しい年がいい年になりますように。

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